2000年以上かけて磨き込まれた仏教の教えは超やさしくてシンプルだった。
このところ、なかなか心が落ち着きません。
正直いって、毎日ムカついて仕方がありません。
終わらないコロナ禍、終わらない緊急事態宣言、リモートワークやら新しい生活様式やら、「コロナ」と書くだけで〈新型コロナウイルスに関係する内容の可能性がある記事です〉と出てくる投稿(そろそろやめませんか?コレ。noteさん)、非科学的なメディアの報道、非科学的な政府の方針、そして酒類提供禁止で8時には閉店させられる飲食店、それゆえに次々に潰れる飲食店、マスク強要されて小学校へ通う娘・・・。
――こんな感じのムードがいつまで続くのでしょうか。
こんなときに心の支えになるような「言葉」が欲しい。
そんな時代だからこそ、出版社の役目です。
はい。
そんなニーズにばっちり応える本があります。
フォレスト出版らしからぬ、異色の著者がいるのです。
それは・・・天台宗ハワイ別院の故・荒了寛師の著書。
今日はそんな異色の本をご紹介したい。
荒さんの『365日を穏やかに過ごす心の習慣。』というタイトルは、フォレスト出版に入社して間もないころに担当させていただいた感慨深い書籍でした。
荒さんは孤立無援のなか天台宗をハワイに布教された立派なお方で、大僧正という高い位のお坊さんです。
荒さんの本を作ることになった経緯は記憶がおぼろげなのですが、荒さんを引き連れて、フォレスト出版代表の太田とライターさんと4人で仙台の温泉宿に2泊3日泊まって作り上げたのが、この本でした。
こころの習慣を正して穏やかに過ごす法
この本は、「こころの習慣」を正して、穏やかな気持ちで生きる方法を解説した本です。
人は誰しも、多かれ少なかれ苦しみや悩みをかかえて生きています。仏教でいう煩悩です。また、苦しみや悩みの原因は人それぞれで、仕事、お金、人間関係、そして病気や老いであったりします。
苦しみや悩みは、悲しみや怒り、ねたみやうらみ、不安などのさまざまなつらい感情をもたらし、「心に悪い習慣」を植えつけてしまいます。そして、なかなか苦しみや悩みが解消できなければ、まるで生活習慣病のように“心の病”となって慢性化しかねません。
とりわけ、経済や社会の情勢が思わしくない昨今、事業や商売、自分の仕事がうま
くいかなくなって悩んだり、就職難でつらい思いをしたり、あるいは人間関係で苦しんだりと、「心の生活習慣病」のようなものがまんえんしているように思います。
では、苦しみや悩みをなくすにはどうすればよいかといえば、「心によい習慣」をつける必要がありますが、ほんのすこし物ごとの見方や考え方を変えるたけで、心は不思議なくらい前向きになり、明日への希望がわいてくるものです。
お釈迦さまは「煩悩を断て」と説いておられるものの、煩悩は容易になくなるものではありませんし、煩悩があるゆえに人は生きているともいえます。
つまり、生きている限り苦しみや悩みはなくならず、煩悩を消すことはできませんが、それを軽くすることは可能で、苦しんだり悩んだりしているのは自分だけではないと、まず考えることがたいせつになります。
お釈迦さまは修行の旅に出て、人々が苦しむ姿を目の当たりにし、この世のすべての人のために悩んだ「大煩悩」の方であり、ゆえに「大慈悲」をあまねく示した方でした。しかし、私たちはほとんどの場合、自分自身のためにだけ悩み、怒りや嫉妬、うらみ、にくしみなどの感情が煩悩となってしまっています。
苦しみや悩みから逃れられないのは、ほとんどの場合、「自分がそうしている」からなのです。自分が招いているつらい感情は、人を思いやったり、すぐにあきらめない、物ごとにこだわらないというように「心によい習慣」をつければ解消できます。
そして、「心によい習慣」をつけるためには、つねに謙虚で素直であることがたいせつになります。謙虚かつ素直であれば、どんなにつらい感情でも上手にコントロールできるようになるでしょう。
本書は、「心によい習慣」をつけるにはどうしたらよいかを念頭に、お釈迦さまの教えをまじえながら書き進めました。また、私が直接うかがって感銘を受けたエピソード以外にも、人づてにうかがって心動かされたお話も紹介させていただいております。この本が、読者の方々の心にすこしでも安らぎをもたらし、「心によい習慣」をもたらすために役立つことができればと願っています。
生きていると、つらく苦しいこともあります。腹立たしいことにも遭います。そして、日々、つまらない煩悩に振り回されてしまいます。
「本当のこと」を真実であると受け止めて苦しむのであれば、いっそのこと現実逃避してしまいたいと思うこともあるでしょう。
そんなときに「嘘も方便」という言葉を思い出すのです。
この「嘘も方便」には続きがあるのをご存じでしょうか。
続きは――
嘘も方便。ところによっては宝となる。
――なんです。
これ、広沢虎造が演じる清水次郎長の浪曲で知った言葉なのですが、なぜかずーーーっと心の奥底に刻まれています。
なんだか、いい言葉だなぁ・・・と。
そんな「嘘も方便」なエピソードが荒さんの本に出てきます。この話がいまでも忘れられません。
ときには「方便」を用いる
私は、かなりおくれて大学院に通っていましたが、そのころ家族ぐるみでつき合っていた、大手化学会社の開発課の課長をしていた友人がいました。
優秀な科学者でもあり、家族は奥さんと娘さんがひとり。あるとき、彼から娘さんの高校進学について相談を受けました。聞けば、娘さんの志望校は入学がむずかしいことで知られていましたが、私の知人が役員をしていた関係で、その私立高校を紹介することができました。とはいえ、もともと成績のよい娘さんでしたから、入学するのに何も問題はありませんでした。
その後、入学して最初の学期を終え、明日から夏休みという日、娘さんは成績表を持って帰ってきました。そして、さっそく彼にみせたところ、彼はひと目みて、「こんなことじゃいかんね。もっと勉強しなさい」といってしまったそうです。
娘さんはしょんぼりして部屋にもどりました。両親はそれを気にもとめず、夫婦で近所に買い物に出かけました。ところが帰宅してみると、娘さんはドアも窓も固く閉め、ガス栓を全開にしてベッドの上で亡くなっていたのです。
たったひとりの娘に死なれて、まず母親は気が狂わんばかりの毎日で、続いて妻も自殺するのではないかと心配しながら、彼は二重も三重もの苦しみを背負って、ともかく会社の勤務を続けていました。
会社の帰り、ときおり私を電話で誘い、駅前の飲み屋で語り合いました。そうしたある日、彼から「人は死んだら、どうなるのかな」と聞かれたことがありました。
私はそのころ、卒業論文のため難解な仏典などに取り組んでいたときでもあり、相手は優秀な科学者でもあるということで、多少構えたところもあったのでしょう、不用意に「色即是空(しきそくぜくう)だよ」といってしまいました。
すると、彼は「何だ、それは」と急に目をけわしくして私を見据えました。私はあわてて、「色とは……、空とは……、無常とは……」などと、もっともらしいことを並べましたが、彼はそれを聞こうともせず、「駄目じゃないか、そんな話じゃ。われわれ夫婦はいま、死んだ娘が、いまごろは三途の川を渡って、川の向こうの広い原っぱあたりで花でも摘みながら、ときにはこっちを向いて、手を振ってくれたりして、極楽に向かって、とぼとぼと歩いているのだろうと、そう思わなければ一日だって生きていられないのだ」といって、絶句してしまいました。
やがて、また夏がきて、夫婦にとってあらためて悲しみが増す一周忌。ともかく、夫婦は、ほとんど二人きりで法事をすませ、親しい人たちに礼状を書きました。「永い間、ほんとうにお世話になりました」と。それが何を意味したのか、受けとった人たちが気づいたときには、もう遅かった。この夫婦は、娘の部屋で娘と同じようにガス栓を一杯に開けて、娘を追っていたのです。
私のあのことばがすべてではないでしょうが、少なくとも、この夫婦に生きる力を与え、あるいはもうすこし「たくみな方便」で、死後の世界などを話すことができていたなら、この二人は、もっと違った道を選んだのでないかと、私の胸はいまでも悔恨にうずくのです。
あれから私自身、いくつもの深い川を渡ってきました。そのたびに、この「色即是空」が重くいろどりを深めています。そして、それまで気づかなかった「即」の一字が「色」と「空」の単なる接続詞ではなく、修行や体験によって、対極的な「色」と「空」の間隔をせばめ相即させ、「即」を深めていくことが、この四文字のいわんとするところではないかと気づきはじめたのです。
先日、中学時代からの同級生と2年ぶりに再会しました。
2人とも中学時代から大学までの仲なので、会えば中高の時代にすっかり戻り、バカ話に華を咲かせるのが常でした。ところが、今回ばかりは様子が違いました。
新型コロナウイルス、緊急事態宣言、それに伴う自殺者の急増、経済のひっ迫、ワクチンをめぐる騒動など、この2年間でさまざまな「価値観の揺さぶり」が立て続けに起こりました。ジェンダーの問題も激変しました。
それに対する対峙の仕方は人それぞれです。ただ、どこかで「社会が分断された感じ」を私は猛烈に感じていました。
同級生に会ったときも、それをとっさに感じてしまい、とたんに孤独を覚えたのです。2年前までは一緒にいて楽しかったのに、いまはぜんぜん楽しくない。
そんな「孤独」についても、荒さんは優しく諭しています。
孤独を共感する
「人は誰でもひとりでは生きていけない」とよくいわれます。
たしかに、人は甘え合い、支え合い、ときには許し合いながら生きているので、それは的を射ていると思います。
しかし、一方には、そもそも人間は「孤独」なもので「ひとり生まれて、ひとり死ぬ」存在だという、厳然たる事実があることもたしかです。
そして、この当たり前の孤独を感じない人ほど「さびしい」とか「愛されたい」といって悩んでいるもので、孤独を噛みしめることから逃げているように思います。なぜなら、愛情を求めるほうが、自分が他者に依存するわけですから、愛情を与える立場よりもラクだからです。
昔は、独身者は変わっていて、ひとり身でかわいそうというイメージがありましたが、最近は男女ともにシングル志向の人がふえていると聞きます。しかし、ひとり身ならではの家族のしがらみなどのない選択をしていながら、勝手なもので、さびしさをおぎなう対象を求めようとしますし、年齢とともにその傾向は強くなるようです。
また、こうした人は元来、人づき合いが苦手で、自分から明るくふるまうことをしようとせず、内側にこもりがちな上に、どうでもいいようなことに固執するプライドの高さがあって、素直さや謙虚さに欠けるところがあります。
場合によっては、まわりから慕われる人を嫉妬したり、仲間はずれにされると逆うらみをしたりして、自分の気持ちが晴れないのは、すべて人のせいにしてしまうこともあるようです。
これでは「さびしい」「孤独だ」などといっても誰も寄ってはきません。
では、どうすればよいか。
「孤独なのは自分だけじゃない」と自分にいい聞かせ、けっきょく人は誰しもひとりにかえっていく存在だということを、まず素直に受け入れることです。そして、誰でも孤独なものだという気持ちを持つことができれば、人にやさしくなれ、会ったことのない人にさえ「孤独を共感する」ことができるようになるはずです。
自分が孤独だと感じたことのない人は、人を愛することができません。ましてみず知らずの人の場合であれば、なおさらです。
「孤独の共感」は、「心の習慣」の大もとになるものと心得ておく必要がありますが、さて、あなたは「人に愛されたい」と「人を愛したい」のどちらを選ぶか。
前者であれば、いつまでも「さびしい」「孤独だ」と悩むことになりますし、つねに誰かに甘えて生きていくしかありません。
しかし、後者であれば、人の痛みや苦しみがわかり、人にやさしく接することができるので、皆に慕われ、尊敬される存在になり得るのです。
このことは、人に感動を与える音楽・絵画・小説などの芸術を考えてみればよくわかります。歴史に名をとどめる芸術家たちは、自分の求める世界を創造するために、おそらく想像を絶する孤独とたたかいながら創作し続けたはずです。また、そうでなければ、人の心に響く旋律や色、文章などが生まれるはずはありません。
たとえば、モーツアルトやベートーベンの作品に、私たちは限りないやさしさを感じることができます。なぜなら、孤独を共感させてくれる音楽が響き、彼らの愛が私たちをつつんでくれるからです。
つまり、孤高の人ほど愛が深く、永遠といえるほどまでに、あらゆる人をつつみ込む力があるのです。
このように、荒了寛さんの言葉は優しく、かつ厳しい。
読めば読むほど、噛めば噛むほどに、味わえる文章です。
フォレスト出版らしからぬ、スルメな本が『365日を穏やかに過ごす心の習慣。』。
ちなみに、上に掲載した言葉と仏画は荒さんのものです。本書にはこんなジンワリと沁みる言葉と仏画が満載。
ぜひ、ひとりでも多くの方へ。
疲れたこころを、癒してほしいです。
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