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クリス・ロックがウィル・スミスにビンタされた件から考える日本の言論事情

フォレスト出版編集部の寺崎です。

ウィル・スミスがアカデミー賞の授賞式でクリス・ロックに奥さんのことをいじられて平手打ちして暴言を吐いた事件が話題となりました。

これに対してウィル・スミスを擁護する人、クリス・ロックを擁護する人、ふたりとも悪い説。さまざまですが、ひとつだけはっきり言えることがあります。

「クリス・ロックはギリギリのところを攻めて勝負してる」

YoutubeやNetflixでいわゆるスタンダップコメディと呼ばれるジャンルの動画を見ると、けっこう際どいテーマを扱っていることに驚きます。

スタンダップコメディ(英:Stand-up_comedy)
英語圏でコメディアンが観衆の目前で演じるコメディ(即興話芸)の一つ。スタンダップコミックや単にコミック、スタンドアップと呼ばれることもある[1]。マイクを片手に、立ちながら喋ることからそのように呼ばれるが、必ずしも立ったままで喋るとは限らない。日本で言う「漫談」と同義とされることも少なくないが、観客の反応を見ながらも、一方的に喋る漫談とは異なり、スタンダップコメディは基本的に観衆との対話形式で進められる(しかしその内容はあくまでも演者のモノローグや一行ジョーク(英語版)などを組み合わせたものである)。スタンドアップコメディアンの中には、小道具、音楽、手品[9]を使用する人もいる。スタンダップコメディは、演じる人の架空の「延長」と見なされる「自由な形のコメディライティング」であると述べられている。(wikipedeaより)

いちばんわかりやすいところだと、人種差別を笑いのネタにしたりするのが典型です。日本人をネタにしたコメディの例がこちら。

これを見て日本人としてどうこう思うところはないけど、改めて思うのは、「アメリカのコメディアンの表現の自由すげー」というところ。最後に飛び出す日の丸のネタなんて、危なすぎて日本では街宣車来るレベルでしょう。

しかし、表現の自由はコメディアンに限らず、普通に暮らす人にとってもきわめて大事なことだと思います。最近の言葉でいえば「心理的安全性」でしょうか。

言いたいことを言える環境。

でも、大人の世界ではいろいろ忖度があって言えない。そんななか、言いたいことを言ってテレビやラジオの世界から干されてしまったのがウーマンラッシュアワー・村本大輔さんです。

原発や沖縄の基地問題などを漫才のネタにし始めた2017年頃からテレビ出演が激減。その後はAbemaTVなどで活躍することになり、私はその時代に彼の存在を知ることになりますが、そんな村本さんが出している本が痺れるんです。

タイトルは・・・

『おれは無関心なあなたを傷つけたい』


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帯のキャッチコピーはこうです。

見て見ぬふりをするすべての日本人へ


表紙をめくった袖の部分にはこんなキャッチが。

この国の最大の悲劇は
国民の無関心と芸人の沈黙だ。

どういうことなのか、気になります。

ちょっとだけ、「はじめに」を引用してみましょう。

 2017年、僕はテレビから消えた。あの場所に違和感を抱いたからだ。
 あの場所に行くのは、子どもの頃からの夢だった。
 でも、捨てることにした。

 理由はこうだ。
 水槽の中で生まれたメダカは、水槽の中が自分の世界のすべてになる。しかし、もし一度でも川に住んだなら、自分のいる世界がいかにおかしいかわかる。
 僕は1ヵ月休みをとってアメリカに行きコメディクラブを回ったことがある。そこではコメディアンたちが、いま社会で起きている理不尽なことをネタにしていた。移民難民問題や人種差別問題、地球温暖化やLGBTQの問題。
 そのときに僕は比べてしまった。日本には芸人が面白いトークをするお笑い番組がたくさんある。でも、そのテーマは「ポンコツの後輩の話」「タクシーの運転手がありえへんという話」「家族の話」「相方がガサツだという話」だ。僕もそういうものだと思って、そんなネタを話していた。
 アメリカで一緒にいた日本人の友達が、ロスのタクシー運転手に「アメリカのコメディは人種差別ネタが多いよね」と言った。
 すると運転手は「それがあるからだよ」と言った。

「あるからだよ」と聞いたとき、僕は思った。
 日本にはないのか?
 そのとき僕は、ふと17歳の頃を思い出した。高校を中退して働いていた植木屋で好きな女の子の話をしたら「あの家は朝鮮人やからしゃべるな」と言われたときの違和感を。沖縄の人たちが基地を押しつけられ、工事に反対し、座り込みをしていることも思い浮かんだ。
 そのとき僕は、たまたまニュースでコメンテーターをしていたので、いろんな問題にふれる機会があった。だから気づいた。
 日本にも「ある」と。
 しかし、テレビでは”あるもの”が”ないもの”にされている。
 なぜだろう。
 視聴者も、出演している芸人や芸能人も、日本にそれがあることに気づいてないのか?
 彼らはこの国に、声なき声があることを知らないのか?
 日本ではそれらは静かに起きているのか?
 それは静かだから聞こえないのか、それとも聞こえないふりをしているのか。
 僕は水槽の外の世界を知ってしまった。テレビの中には持ち出されない言葉がたくさんあることに気づいた。

 僕は、年に一度だけテレビで漫才をさせてもらえる。2017年に出演したとき、試しにそこでその言葉を出してみた。
 すると、テレビの仕事はなくなり、嫌いな芸人ランキングの上位に選ばれ、いままでの若いファンの子はいなくなり、街宣車にまで追いかけられた。水槽の中にザリガニでも入れられたかのように、彼らは不安になり、嫌悪を示した。
 それから毎年、僕はその漫才番組の5分を使って、ザリガニを水槽の中に入れ続けている。
 ザリガニの正体は”意見”だ。意見を恐れる日本人がいる。無関心な人たちに気づかれることを恐れている。「民主主義」なんてかっこいいことを言っているが、「無関心主義」のおかげで成り立っている国だ。
 無関心とは「犠牲」を見ないことだ。誰かを下敷きにして、僕らはその上に座っているという現実に目を向けないから、僕は漫才を使い、そこに目を向けさせる。

村本さんは日本人にとっておそらく一番身近な人種差別問題である「在日韓国人」について斬りこみます。

 朝鮮学校はほかの学校と違い、授業料が無償化されていない。だから彼らの親は昼夜働き、朝鮮学校の授業料を払っている。少しでもそんな親を楽にさせたくて、生徒たちは朝鮮学校の無償化を街頭が訴えていると言っていた。
 でもこの日本には、個人で見ずに「朝鮮」というだけで子どもにも汚く幼稚な言葉を浴びせる人たちがいるみたいで、街頭で呼びかけをしている彼らのもとに街宣車で現れ、汚い言葉で暴言を投げかける。しかし、彼らは負けずに街ゆく人たちに声をかけ、ビラを配り、一生懸命、朝鮮学校の無償化を訴えている。
(中略)
 高校生なのに街頭で自分たちの主張を訴え、街宣車に罵られながら一生懸命、国とこの国の空気に訴える姿勢。ずっと無関心だった僕は少し恥ずかしくなり、おれは何やってるんだろうと、一昨年の年末の漫才にほんの少しだが彼らのことをネタに組み込んだ。
 するとオンエア後に信じられないくらいのメッセージが届いた。ゴールデン、しかも、お笑いで、漫才で「朝鮮学校の無償化」という言葉が入っていることが衝撃だったらしく「家族でテレビを観ていたら、急におじいさんが泣いた。それを見てお父さんが泣いて、私が泣いた」というメッセージがあった。おじいさんの苦労を知るお父さん、お父さんの苦労を知る娘。
 その前の年には沖縄の辺野古を漫才にした。そのときも同じような反響があった。ゴールデンの番組で漫才で、辺野古、高江というワードが出てくることに驚いたと。原発のネタをやったときも同じく反響があった。
 僕は数年前からアメリカのお笑いをよく見ているけど、そんな社会問題や言葉は当たり前に出てくる。でも、この国では出てこない。
 なんなら、そういった言葉を出すだけで「笑いから逃げている」と言う人たちもいる。コメンテーターとしてニュース番組に出ていても、専門家に任せて、あとはやんわり核心をそらす芸人たちこそ、笑いから逃げているように見える。それはただのテレビ村で生き延びたい人たちの家畜忖度根性を正当化しているだけに思える。

いやー、村本さんのこういう姿勢、マジで痺れますね。

ウィル・スミスにビンタされたクリス・ロックに欠けていたのは「笑いに潜む社会性」だったのではないかと思います。ウィル・スミスの奥さんの円形脱毛症には社会性はないわけでありまして。

本書にはほかにも痺れるエピソードが満載ですが、とにかく「人の痛み」を理解しようとする村本さんの姿勢、そしてそのことを笑いに転換して世の中に問い続ける態度に感動を覚えます。

「あとがき」もいいんです。

日本という国が抱える問題に無関心でいることに耐えらない。

そんなアナタにおすすめです。


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