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「最も日本人らしいプロサッカー選手」 ~クチンFA所属・鈴木雄太選手インタビュー~


皆様、こんにちは!

3月からOWL magazineで記事を執筆させていただいております狩野宏明です。

かつてはボーリングのピンのコスチュームで国内外の日本代表戦に度々現れていたのでご存じの方もいるかもしれません。日本代表戦に加え、世界中(通算58ヶ国)を旅しながら、ブログ等を通してその土地で行なわれているサッカーの魅力を発信してきました。

その後、ひょんなことからカンボジアに移住し、日系クラブの立ち上げに関わらせていただき、今は現地でメディア関連の仕事をしています。

<前回の自己紹介記事はこちら>
アジアの片隅より、リアルなフットボール熱をお届け!


今回からカンボジアを中心にアジア各地で奮闘するサッカー関係者へのインタビューを紹介したいと思います。

かつて日本人がアジアでプレーすると、都落ちだとか、Jリーグに行けなかったからだとか非難されることが多かったと先人のサッカー選手から話を聞いたことがあります。

しかし、近年のグローバル化もあり、社会全体が多様性を認めはじめ、情報の高速化が起こったことで日本国内にとどまらず活躍の場を求めて海外に出ていく日本人やサッカー関係者が増えています。

僕がこの10年間、旅先で出逢ったサッカー選手・関係者たちはたしかに欧州各国のトップリーグでプレーする日本代表クラスの選手とはサッカーのレベルも環境も劣るかもしれません。

しかし、彼らは生きる選択肢としてサッカーを選び、誰にも負けないくらい情熱を注ぎ、覚悟を持ってプレーしています。

そしてそこには、それぞれの地の文化や風習、人と触れることによって経験できる唯一無二のストーリーが存在しています。

日本だけでは決して経験できない彼らのストーリーを陽のあたらないままにしておくのはもったいない!、少しでも多くの方に知っていただきたいと思い、今回から紹介させていただくことになりました。

第1回目は現在、マレーシアプレミアリーグ(2部)のクチンFAでプレーする鈴木雄太選手を紹介します。
これまでサッカー選手として日本、チェコ、カンボジア、マレーシアを渡り歩いた彼のフットボールライフに迫ります。


狩野:お久しぶりで!今日はよろしくお願いします!
鈴木選手とは2017年にカンボジアでプレーした際に知人を通して知り合いましたね。

鈴木:そうですね。当時はよく一緒にご飯食べたり、何度か友人を連れて応援に来ていただきました。僕のサッカー人生においてカンボジアでの日々はいろんな方に出会えたことで毎日が濃く、忘れられない経験になりました。今となっては良い思い出ですね。

狩野:今回は日本人選手では数少ない欧州とアジアでのプレー経験がある鈴木選手のこれまでのサッカー人生についていろいろ聞かせていただきたいです。よろしくお願いします!
まずは幼少期の頃から振り返ってみましょうか。サッカーをはじめたきっかけや、子供の頃どんな子だったのかなどいろいろ話を聞かせてください!


サッカーを始めたきっかけ

幼少期

三重県多気郡明和町というところで育ちました。地元は当時、ソフトボールが盛んな地域で、クラブチームや中学のソフトボール部は全国大会に出場しています。2021年の三重とこわか国体では、成年男子ソフトボールの試合会場になる予定です。

そんな地域で育った僕ですが、小学1年生の時にサッカーか、ソフトボールのどちらをプレーするのか決断を迫られました。物心ついた時から走ることが好きだった僕は、より多く走ることのできるサッカーをすることに決めました。子供って単純ですよね(笑)

その当時はJリーグ開幕して5年が経とうとしている頃で、全国的にもサッカー機運が高まっていました。そこで僕の地元にも「明和FC」というサッカー少年団が設立されました。
ちなみに漫画「キャプテン翼」の日向小次郎が所属していた明和FCとは全く関係ありません(笑)

しかし、僕が小学校入学した当初、この明和FCに入団できるのは“4年生以上”という、決まりがありました。今でこそ、日本は幼稚園からサッカーができる環境が当たり前になっていますが、当時は全国の各地方ではサッカー少年団に入団できるのは小学校中学年以上という決まりが多かったということを大人になってから知りました。

ですが、僕は運が良く、1年生の終わりにはそのルールが変わって入団することができました。この明和FCでサッカーをはじめたことがきっかけでどんどんサッカーの虜になっていきました。

小学6年生の時には三重県松阪市の選抜チームとして全日本少年サッカー大会三重県予選で優勝し、人生初の全国大会に出場しました。

個人としては当時のポジションはトップ下(今はボランチ、シャドー)で少年団ではキャプテンを務めさせてもらい、県選抜にも選ばれました。

でもギリギリ受かったようなものだったので、遠征にいってもベンチ外などで試合に出れませんでした。その後、東海地域のセレクションも受けにいきましたがダメでした。

しかし、意外にも自分自身ではそこまで落ち込まず、ある程度自分の実力を受け入れいたことを子供ながら記憶していますね。

また、その頃は年に1回くらい家族でJリーグの試合を観に行ってました。記憶がうる覚えですが、当時セレッソ大阪が三重に来て試合を行なったのと、比較的近かった名古屋にグランパスに観に行きましたね。

しかし、地元である三重県にはJクラブもないこともあり、「Jリーグ=テレビ観戦か遠くに車で見に行くもの」と認識していた記憶があります。
サッカー少年だったので、Jリーグを観てサッカー選手になりたいなくらいは思っていましたがまさかその後なるとは思いもしませんでしたね。

血気盛んとは無縁の中学時代

中学は地元の学校に進学し、サッカー部に入部しました。
当時の日本の地方にはクラブチームはほとんどなく、部活動ではサッカーの指導者として素人の先生が顧問ということがよくあったと聞きます。

しかし僕の地域は少年団の頃からのコーチが中学でも引き続き指導してくれたおかげで一貫した指導を受けることができ、部活動とクラブチームの中間のような特質な環境でした。

でも、この頃の僕はここしか知らなくて、世の中のほとんどがそういうもんだと思ってました。だからその後、関東に出てきてびっくりしましたね。当時のコーチには今でも感謝しています。

あとこれは全国の田舎はどこもそうだとは思いますが、当時は思春期だったこともあり、サッカー部の同級生は何人かヤンキーになって非行に走ってしまい、サッカーを辞めていきました(笑)

そんなこともあり、肝心のサッカーの結果は、なんとか地区予選突破したものの、県大会1回戦敗退と目立った成績は残せませんでした。

あと、サッカーとは別に小学校5年生から週1回でフットサルやっていました。小学5,6年は県大会準優勝、中学1,2年は県大会優勝、中学3年大会ベスト4とサッカーよりも結果は残していましたね。でも、今でも足元の技術にはあまり自信はありません(笑)

憧れの舞台に立つも悪夢の後半に記憶が吹き飛ぶ

旧国立

高校は地元からちょっと遠いんですが、三重県立津工業高等学校に進学しました。

当時の三重県内の高校サッカー事情は、誰が見てもひときわ上手い選手は県外のJクラブのユースや強豪校、県内の私立や名門・四日市中央工業を選び、津工業は普通の高校でしたが、中学2年の時に全国高校サッカー選手権に初出場したのを目の前で見たことで入学を決めました。

県立高校の機械科なので、普段の授業では鉄を削ったり、溶接したりと今思うと貴重な経験をしてましたね。危険物取扱者などの資格も持っています。

サッカー部にはレベル別にAとBの2種類があって、一応、1年からAチームに入っていましたが、基本はベンチ外で1試合も出れませんでした。

しかし、2年の新チームで同じポジションの選手が怪我で、代わりに出たのがきっかけでそこからずっとスタメンに定着しました。

2年時の夏には三重県大会で優勝し、インターハイに出場(1回戦大津に負け)しました。

そして、迎えた高校2年の冬の全国高校サッカー選手権。インターハイが1回戦負けだったので、選手権は1回戦突破が目標でした。

ですが、チーム初戦の2回戦で富山第一に3-1で勝利すると、3回戦は那覇に2-1で競り勝ち、準々決勝で強豪・広島皆実に3-1で勝利と、まさかまさかの快進撃でどんどん勝ち進むことになろうとは思いもしませんでした。

しかし、迎えた準決勝に事件は起きました。相手はのちに優勝した千葉県代表・流通経済大柏高校。

憧れの旧国立競技場で試合ができるとあって、緊張していたんですが、始まってしまったら相手が強すぎて、もう緊張どころじゃなかったです(笑)

とはいえ、前半はなんとか頑張ってる感を出して接戦(0-1)を演じていたんですが、後半でまさかの5失点。結局0-6で大敗でした。大前元紀選手(現群馬)に4点も取られてしまいました。

僕のサッカー人生においても素晴らしい経験だったはずですが、後半の記憶が全くありません(笑)

ただただ悔しかったことだけは今でも覚えています。


3年時はキャプテンを務め、インターハイに出場するも1回戦で矢板中央で敗れました。そして冬の選手権の三重県大会決勝ではライバルの四日市中央工業に1-3で敗れ、結局選手権には出場できずに高校サッカーが終わってしまいました。

当時の僕たちは2年時のインターハイ予選から3大会連続で全国大会に出場しており、今回も出場できると思っていましたが甘かったですね。完全に調子に乗っていました。また、この時キャプテンは向いていないことがわかったのでその後はやっていません。笑

とはいえ、高校時代はインターハイ2回、全国高校サッカー選手権1回と計3回の全国大会を経験したことで自信はつきましたね。


最後の最後に気づいた大学時代

専修大学サッカー部

大学は専修大学に進学し、サッカー部に入部しました。

入学したきっかけは2年の時に選手権でベスト4に入ったことで、3年の夏に専修大学の練習に呼んでもらえることになりました。そこでたまたま調子が良かったこともあり、スポーツ推薦で入学できることになりました。

人生たらればを語ればきりがありませんが、仮に選手権で勝ち進んだのが3年生だったら既に就職は決まっている時期だったのでこの大学進学はなかったでしょうね。本当に僕は運が良かったと思います。

しかし、大学に入学して自分の実力を思い知らされることになりました。

僕が在籍していた頃の専修大学は関東大学サッカーリーグ2連覇(その後4連覇)、全国大学サッカー選手権で初優勝するなどめちゃくちゃ強かった時でした。

今、Jリーグで活躍している選手だと1学年下に長澤和輝選手(浦和レッズ)、2学年下では仲川輝人選手(横浜F・マリノス)がいましたね。

同期では栗山直樹選手(モンテディオ山形)、Kリーグ・大邱FCでプレーする西翼選手、ホンダFCで3度のJFL・MVPを獲得している鈴木雄也選手がいました。

個人的にはAチームとBチームをいったりきたりしていましたが、大学4年の春まではトップチームでは1試合も出られませんでした。

3年の終わり頃になると進路を決めないといけない時期になり、僕はサッカーは一旦区切りをつけ、他の学生と一緒に普通に就職活動をしていました。

その後無事に内定が出て就活が終わりましたが、何か自分の中で何か腑に落ちなかったんです。

大学生活も残りわずかで時間だけが過ぎていく。

「このまま自分のサッカー人生が終わっていいのだろうか」と自分に問うようになり、その気持ちが日に日に強くなっていきました。

それまでは弱い自分をコントロールできませんでした。

しかし、この時は初めて自分のサッカー人生の終わりが見えはじめたことで、自然と最後に大好きなサッカーを楽しみたいと心から思うようになりました。これまでは完全に甘えていましたね。

その後、誰にも負けたくないと必死に練習を頑張り、後期のリーグ戦ではなんとか3試合出場することができました。この時の経験を通して、自分でも必死に頑張ったら試合に絡めるのだと自信がつきましたね。

でも、ちょっと気づくのが遅すぎました(笑)

大学卒業後は一般企業に就職しました。ずっと続けていたサッカーをやめたことで、多少精神的に自由になり、飲み会などこれまでできなかったようなことに人並みに経験しましたが、それも長くは続きませんでしたね。

やっぱりまだサッカーを続けたかったんです。

でも昔から僕は性格的にまわりからどう思われてるかを気にすることがよくあり、この頃も“僕は人と比べて、試合も大して出たことなかったのにサッカー続ける意味なんかなくないか?”と自分に嘘をついてサッカーを続けたい気持ちを押し殺していました。

だからこの頃は、もう毎日モヤモヤしながら社会人生活していましたね。そして結局、その想いが抑えられず入社からわずか半年で会社を辞めることになりました。


過酷だった地域リーグ決勝大会

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退職してすぐの2013年11月、タイで住んでる方にお世話になって、当時タイ3部の2クラブのトライアウト受けました。しかし、結果は不合格で、資金もなかったので一ヶ月ほどで帰国しました。

さらにその翌年、SC相模原(現J3)、FC琉球(現J2)のトライアウトを受けましたがここも不合格。最終的に当時東海リーグ1部に所属していた地元のFC鈴鹿ランポーレ(現鈴鹿ポイントゲッターズ)に連絡取り、入団することになりました。

サッカーでの給料は勝利給だけだったので、月~金はスクールコーチしながら、土日は試合。片道1時間半かけて実家から通いました。でも好きなサッカーが続けることができたのでそれだけで僕は幸せでした。

1年目から東海リーグ1部で優勝し、JFL昇格がかかる全国地域サッカーリーグ決勝大会(現全国地域サッカーチャンピオンズリーグ)に出場しました。
初戦のサウルコス福井(現福井ユナイテッド)に1-2で敗れ、後がない2戦目は松江シティFCとの対戦では3-0で快勝。僕自身もチーム3点目となる得点を決めました。

そして、勝てば決勝ラウンド進出の可能性があった最終戦のクラブドラゴンズ(現流通経済大学ドラゴンズ龍ヶ崎)戦でしたが0-3で敗れ、結果グループ3位となり、予選グループ敗退。

もちろん結果も悔しかったんですが、人生初の3日連続の試合で本当に死ぬかと思いました。これまでJFLへの道はそう簡単にはいかいとよく言われてましたがこの時、身をもって実感しました。地決は本当に厳しい戦いです。

翌年、チームに元Jリーガーが加入するなど今度こそJFL昇格と意気込みましたが、終わってみれば東海リーグ2位で全国地域サッカーリーグ決勝大会出場を逃し、この年限りで鈴鹿を退団しました。

初の海外挑戦で得たもの

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※チームメイトや友人と草サッカーした際の写真
(残念ながら当時の写真がこれしかありませんでした)


2016年2月、お金貯めて今度は欧州へトライアウトを受けにいきました。
いきなり欧州?と思われるかもしれませんが、もう完全に勢いでいきましたね(笑)

当時の僕は欧州の移籍期間も知らないくらい知識もなく、現地に着いた時には既に移籍のウィンドウは閉まっていました。

しかし下部リーグはまだ開いていたので、仲介人を通じてチェコ3部のクラブでプレーできそうだといわれてましたが、最終的には4部のFSC Stara Riseというクラブへ入団しました。

チェコは2部までがプロで、3部以下はセミプロもしくはアマチュアで、この4部は完全アマチュアでした。(ご飯、宿は提供あり)

でも試合をする環境としては良かったですね。4部ですがテレビでライブ中継もあり、天然芝のスタジアムには観客が2~300人くらい入っていました。

売店ではビールとソーセージが売っていて、観客はそれをほおばりながら試合観戦し、試合後には声をかけられるという、そんな牧草的でのどかな雰囲気が良かったです。

また、インターネットで調べたら、数年前にこの町に住んでいた日本人の方がブログを書いていたので、思いきって連絡してみたら日本語を話せる現地人の夫婦を紹介してもらいました。

その夫婦には本当にお世話になりました。休みの日にお食事させてもらったり、いろんなところに連れていってもらったりと今思えばチェコの田舎町に来た見ず知らずの僕にあんなに優しくしてくれるなんて。。
かけがえのない素晴らしい出会いでしたね。

チェコでは最終的にリーグ戦9試合出場しました。しかし、VISAの関係もあって、リーグ戦残り3試合残して帰国することになりました。

この時初めて、知らないって怖いことだと身をもって体感しました。こういう経験があったからこそ、その後はまずは自分で徹底的に調べる癖がつきましたね。


貴重だったTSV1973四日市での経験

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欧州から思っていたよりも早いタイミングで帰国しましたが、その後は半年ほど高校の時のチームメイトの紹介で三重県1部リーグに所属するTSV1973四日市というクラブでプレーすることになりました。

TSV1973四日市とは
三重県四日市市を拠点に活動するサッカークラブチームTSV1973四日市の公式Twitterです。育成型Jクラブ、4年後のJFL入りを目指し2019年度より強化を進めていきます。“スポーツの力を生きるチカラに”“人を育て地域を輝かせる”をコンセプトに、地域に根ざしたクラブづくりをしていきます。
TSV1973四日市クラブ公式Twitterより

田舎で社会人サッカーというと、練習はあまり行わず試合だけのみということが多いですが、このクラブは練習も平日にしっかり行なっていて、仕事しながらサッカーも真剣にやろうというスタンスのクラブです。

当時、チェコから帰国後、練習相手がいなく公園でダッシュして近所の人に白い目で見られていた僕としては本当にありがたい環境でした。

もちろん、僕が過去に所属し、Jリーグを目指している鈴鹿とはレベルも規模も違いますが、Jリーグを目指すだけが全てではない、仕事しながらサッカーとこういう関わり方もあるのと知ることができたいい機会になりました。

この年、最終的には三重県リーグで優勝し、東海リーグ2部に昇格しました。

もちろん、全国的にはまだまだ無名ですが、素敵な取り組みを行っているクラブなので今後注目してもらいたいですね。

僕はシーズン終了後に同クラブを退団し、トライアウトを受けるために東南アジアへ飛びました。今度はアジアへの挑戦です。


カンボジアで自身初のプロサッカー選手に

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2016年の年末から年明けにかけて、約2か月間でミャンマー、フィリピンでトライアルに参加しましたが結果は不合格。

年が明けてしばらく経ち、2月半ばの東南アジアの各国リーグの開幕が近づいていく中、所属クラブがない僕は精神的にだいぶ追い込まれていました。

日本人が海外でプレーするということは各リーグ規定の外国人枠でプレーするということです。

日本ではあまりありませんが、こっちでは結果を出せなければ、シーズン途中でもすぐにクビを宣告される厳しい世界です。

この時期、僕のような選手はトライアウトを受けながらも、各国のクラブの外国人枠がどんどん埋まっていくのをSNSを通して日々チェックする必要があります。

時期的にACL(アジアチャンピオンズリーグ)とその下部にあたるAFCカップのプレーオフが行われており、日本人選手もちらほら出場していました。

そんな時、AFCカップのプレーオフに出場したものの、敗退したカンボジアのプノンペンクラウンFCが所属する外国人選手との契約をこのプレーオフで終了するという投稿が目に入ってきました。

クラウンは前年度のカンボジアチャンピオンで、当時のカンボジア国内では歴史も成績も群を抜いており、カンボジアの中ではビッグクラブです。

しかし、そんなことは考えずに僕は迷わずFacebookを使って連絡を取り、翌日すぐにカンボジアに飛びました。

その後、2週間ほど練習参加させてもらい、入団することになりました。

僕が練習参加した時、リーグ開幕までわずか2週間前。仮にこれが開幕1ヶ月前とかだと他にもトライアウトを受ける選手が多かったりしてきっと難しかったと思います。本当にタイミングが良かったです。

クラウンは前述の通り、カンボジアNo.1クラブだったのでしっかりとした天然芝のグラウンドに選手寮もあり、しっかりと給料をもらえて、初めてプロサッカー選手としてプレーできる喜びを毎日感じていました。

リーグ戦ではデング熱になって1試合欠場しましたが、その他は全試合出場しました。

ウクライナ人監督がなかなか面白いサッカーをやって、日本人の器用性を理解していたこともあって、いろんなポジション(サイドバック,ウィングバック、3バックの左、ボランチ)を経験させてもらい、プレーの幅が広がりました。

また、カンボジアリーグのオールスターチームに選ばれ、タイの強豪ムアントンユナイテッドFCとの親善試合にも出場しました。

当時のムアントンはACLでブリスベンロアー、蔚山現代、鹿島アントラーズに勝ちベスト16進出し、メンバーも清水やマリノスで活躍したDF青山直晃選手はじめ、ベガルタやセレッソ大阪でプレーしたブラジル人MFへベルチなど、欧州で活躍した選手も所属しており、J1レベルでした。

僕はサイドバックでスタメン出場しました。ディフェンス陣の4人中3人を日本人選手で固めて対策しましたが、あまりのレベルの違いで前半だけで3失点。結局、僕も前半途中で交代しました。貴重な経験とはなりましたが、レベルの差を痛感し、この夜は相当凹みましたね。

また、この年のカンボジアリーグはリーグ戦終了後、上位4チームに優勝を決めるプレーオフ制度がありましたが、結果は5位で進めませんでした。

シーズン終了後クラウンを退団し、その後はまたトライアウトの日々に戻りました。

この年はタイ、マレーシア、フィリピンでトライアウト受けるもどこも受かりませんでした。

そして、最終的にカンボジアに戻ってきてナショナルポリスというクラブに入団しました。

ここは警察を母体をするクラブで、長年一緒にやっている選手やスタッフが多いのでファミリー感があり、雰囲気は良かったですね。

それに他のクラブと比べても環境で恵まれてない分、選手それぞれが必死にやってる感じが刺激にはなりました。

この年はリーグ戦は全試合に出場、開幕戦でプロ初ゴールも決めました。

ポリスで過ごした2018シーズンを振り返ると待遇面はかなり厳しく、プロと呼べるような状態ではなかったかもしれません。しかし、チーム内含め、カンボジアで出会ったまわりの方々に助けてもらいました。

特にサッカー関係だけじゃなく、現地に住まれている日本人の方々が主催するボランティア活動やイベントに参加したり、たくさんの方が試合に応援に来ていただいたことは一生忘れません。

高校時代、ほぼ男子校だったので、女子に応援されるとこんなにも頑張れるのだと思いました(笑)


地域の繋がりと人の温かさを感じた町クチン

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2018年のシーズンオフはマレーシアへ。現地の日本人の方にマレーシア1部から2部に降格したクラブを紹介してもらって、練習参加しました。

マレーシアはサッカー熱が高く、カップ戦決勝などは約8万人も入ることもあります。

僕が練習参加したクラブは歴史も伝統のある人気クラブだったので、練習参加が決まった際にはなんとInstagramのフォロワーが1日で2000人も増えました(笑)
フォロワーさんの中には今でも遠征でここに行くことになった際に連絡くれる人もいます。

練習参加としては異例の1ヶ月以上も帯同し、練習試合にも出場し、リーグ開幕直前まで粘りましたが、残念ながら入団することができませんでした。

もう既に他のクラブの外国人枠は埋まっていましたし、その後すぐにリーグ開幕してしまったのでもう行くところがない状態で絶望的でしたね。

そんな中、この年に新設されたマレーシア3部リーグのクチンFAが声をかけてくれました。3部は2部よりも開幕が遅かったこともあり、入団することができました。

クチンはサラワク州の州都クチンをホームタウンとする2015年にできたばかりの新しいチーム。

チーム内に外国人は自分だけしか所属しておらず、最初は不安でしたが、チームメイトが僕を外国人選手としてではなく、マレーシア人選手と同じに扱ってくれたおかげですぐにチームに溶け込むことができました。

入団した時の僕は28歳。サッカー選手としては決して若くはないですが、このチームは自分よりも歳上が多く、レギュラー陣はほとんどが歳上です。
そして、元マレーシア代表経験のある2人の選手含め、ほとんどが地元の選手、もしくはこの地にゆかりのある選手で構成されています。スペインのアスレティック・ビルバオみたいなイメージですね。

彼らはチームメイトや家族、この土地を誇りに思っており、練習がない日やいろんなところに連れていってもらい、家にホームパーティなどもしょっちゅう呼んでもらっていますね。

基本は英語で会話しますが、今はもう1年住んでいるのでマレー語もちょっとは理解できるようになったので英語とマレー語をミックスさせて話しています。文字もアルファベットなのでなんとなく読めます。

肝心のサッカーのほうはというと、個人的にはリーグ戦全試合に出場し、2ゴールを決めることができました。

しかし、2部昇格の枠数がリーグ終盤まで決まらず、これにはハラハラしましたね。最終的に3部リーグ1位は自動昇格、2位は2部の下位チームとのプレーオフすることが決定。僕が所属するクチンFAは2位でプレーオフに進出しました。

そのプレーオフの対戦相手は同じクチンをホームタウンとするサラワクユナイテッドFC。

実はクチンFAに入団する前にトライアウトを受けたことがあり、1日でクビになった苦い想いをした相手です。

サラワクは元々、マレーシア国内で強豪だったこともあり、数年前にはスタジアムに3万人も入った人気クラブだったようです。試合は3部と2部のプレーオフながら観客も約8000人ほど入り、チームメイトは元々サラワクに関わりがある選手が多く、当日は気合十分で試合に臨みました。

結果は3-1で見事勝利し、無事に2部昇格を決めました。

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僕は昨シーズンの活躍が認められ、今年も契約を更新し、クチンでプレーすることになりました。

余談ですがこのプレーオフの後、2部の経営危機にあったクラブをサラワクが買収し、結果的に2部残留することになりました(笑)

個人的な感想ですが、一つの都市に2つクラブがあるのは良いことだと思います。これまではサラワクを辞めたらサッカーを続けられない人だって、きっと少なくはなかったはずですが、クチンFAができたことで移籍してサッカーを続けることができたチームメイトもいます。

また、ユース年代も2つチームがあれば、切磋琢磨できると思います。チーム数が増え、単純にサッカーができる人数が増えると、たとえ子供の頃にサッカーがあまり上手くなくてもサッカーを辞めないで続けられることができますよね。

子供たちがサッカーできる環境を増やすことはもちろんですが、大人になってもできる環境を増やすことも、より多くの人にサッカーの魅力を知ってもらえることに繋がるのではないでしょうかね。


そして僕は今、この町のいろんな方に支えられてプレーできていると実感しています。

だからこそ、この町の人たちのためにも試合で結果を出すことはもちろんのこと、サッカーを通じて様々な恩返しをしていきたいですね。


<プロフィール>
鈴木 雄太(スズキ ユウタ)
1990年7月9日生まれ、O型
三重県出身
身長165cm、体重63kg
利き足は右(サイズは25.5cm)
ポジションはMF(主にOMF、DMF)
Twitter:@yutarn20
Instagram:yutarn20
公式サイト:https://yutasuzuki.net/

<経歴>
1998-2003 明和FC
2003-2006 明和中学校サッカー部
2006-2009 三重県立津工業高校サッカー部
2009-2013 専修大学体育会サッカー部
2014-2015 FC鈴鹿ランポーレ(現鈴鹿ポイントゲッターズ)
2016 FSC Stara Rise(チェコ4部)
2017 Phnom Penh Crown FC(カンボジア1部)
2018 G.C.National Police FC(カンボジア1部)
2019 Kuching FA(マレーシア3部)
2020 Kuching FA(マレーシア2部)


鈴木選手ありがとうございました!

欧州とアジアの1部から4部まででプレー経験ある選手はなかなかいないですよね。

お話を聞いていく中で鈴木選手は「自分は運とタイミングが良かった」ということを何度も話していましたが、たしかに場面場面で運とタイミングが良かったこともあるとは思いますが、それも含めて全部彼の実力だと思います。

私はこれまで何人もの海外でプレーしているサッカー選手と出会ってきましたが、彼ほどまわりに気を配るのがうまく、好かれているサッカー選手は見たことがありません。

何度も何度もつまづいたかもしれませんし、まわりの目を気にする自分に嫌気さしたかわかりませんが、結果的にはそういった挫折を喜びに換えて糧として成長していっている彼の姿は、まわりにいい影響を与えているに違いない。

本人いわく初対面ではサッカー選手だと思われないことが多いと言っていますが、彼はまさに「最も日本人らしいプロサッカー選手」です。

自分のまわりの人を大切にしながら、目の前の環境を楽しみ、自分の好きなサッカーを続けている鈴木雄太選手の今後に期待しましょう!


ここから有料コンテンツとなります。

2020年になって、コロナウイルスの影響で様々なことが規制されいます。有料部分では現在の鈴木選手を取り巻く状況や、プロサッカー選手だからこそできることを考えて実行しているということなので紹介したいと思います。

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