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阿部勇樹、引退に想う『あの時』。


浦和レッズ・阿部勇樹選手の引退がご本人の口で、言葉で。発表となりました。
阿部勇樹。40歳。
そうだよな、40歳という年齢なんだよな、と改めて。
私自身も同世代である阿部選手含むアテネ世代は、私が「サッカー死ぬほど好きな人」から「サッカーを伝える側」になってはじめて世代別から深く追った世代でした。
その中でも、阿部勇樹選手の『あの時』のことを、事あるごとに 思い返すのです。

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●谷間の世代と呼ばれたアテネ五輪世代 満員のスタジアムを揺らした「あの時」

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阿部勇樹を初めて見たのは、静岡県で行われていたU19日本代表が戦うSBSカップだったであろうか。
当時、後に黄金世代と呼ばれることとなる世代の中に1人、17歳の選手が選出されているというインパクトで覚えた記憶がある。J1に16歳でデビューした当時Jリーグ最年少出場記録を打ち立てた選手。
その時の私は「サッカー死ぬほど好きな人」として興味と好奇心だけで静岡に向かい、次世代の選手たちを見てワクワクを募らせていた。

サッカーと一言でまとめられる世界だが、とても広い世界の中で、その後伝える側になった私が、どこに焦点を置こうかと悩んでいた時。
まだ駆け出しでライターといっても、サッカーライターですとは胸を張って言えない程、まだまだ駆け出しの何でも屋だった私は、
自分の年齢と同世代である世代別を追ってみようと踏み出したのが、アテネ五輪を目指す世代だった。
狭間の世代・谷間の世代。そう表現される彼らを同世代の視点から感情から、追ってみたいと思ったからだった。

黄金世代に唯一ひとつ下の世代から選出されながらも予防接種の関係(?)で見送りとなった阿部勇樹が、ひとつ下の世代で新たに挑む世界はどんな「色」になるのだろうと思っていた。
まだまだ粗削りで発展途上、まだ手探りで未完成な彼らだったが、常に光るものを持っていると感じさせる、粒揃い。
観に行く度に発見と成長をみせてくれるこの世代に、とにかく夢中でのめり込んだ。

取材ノートを見返しているわけではないし、アテネ五輪から20年弱が経過しているので記憶として時系列がぐちゃぐちゃになっているかもしれないが、
アテネ五輪出場を懸けての最終予選前に、骨折(?)という大怪我を負っていた阿部勇樹は足にボルトを入れる手術をした…のではなかったか。。
最終予選は2ラウンド集中開催で行われ、復帰できるかどうかという中で、UAEラウンドを回避。より重要となる日本ラウンドに入るとその初戦バーレーンとの試合で守備の軸であった田中マルクス闘莉王がまさかの退場。
急なアクシデントによる難しい交代で入った選手が、ついに復帰となった阿部勇樹だった。

まだ世代別に大きな期待がかけられることも興味を持つ人も少なく、黄金世代から谷間の世代という落差のある表現も相まって、この世代の試合は当初空席が目立っていたが
日韓W杯という日本がサッカーで蒼く染まり最高潮に盛り上がった出来事を経て、サッカーファンが急激に増えた後の最初の五輪挑戦ということもあり、徐々に注目度も期待も高まり、この最終予選時にはチケットも争奪戦。
超満員の埼玉スタジアムは、待ちに待った阿部勇樹の復帰で揺れた。

この上ないであろう頼もしさを感じさせるその姿は心強かった。
試合は、バーレーンに敗戦。初戦を落としたことで日本に五輪黄色信号が灯った。
日本に初勝利したバーレーンは出場権を獲得したかのような大喜びでピッチを選手たちが駆け巡って喜んでいた。
中数日で行われる聖地・国立での決戦へ向けて難しい立場となったが、それでも最後まで大声を出し守備の要としてチームを引っ張った阿部勇樹の姿に このチームは大丈夫だ。という確信をもらった気がした。

当時、阿部勇樹を語る上で欠かせないひとつの武器であった自身のFKでのゴールもあり、満員の聖地・国立をひとつにしてアテネ五輪への切符を掴んだ。

私がサッカーを魅了され、はじめてテレビで見た五輪での日本代表は、アトランタ五輪でのマイヤミの奇跡。
ブラジル代表に勝利した日本代表を画面越しに観て、感動と興奮で震えた。
五輪への出場権を得たこと自体が28年ぶりという快挙だった。

その感動した出来事が「五輪 サッカー」というワードで私の中から引っぱり出せる一番古き思い出だが、その時の何倍もの感動がリアルで刻まれたアテネ五輪の代表。
世代別からの成長と葛藤から追ったその時の積み重ね、空気と雰囲気など、「あの日あの時」として思い出せるのだ。
アテネ五輪出場が決まった国立からの帰り道。蒼く染まった千駄ヶ谷駅までの道をサポーターと一緒にチャントを歌ってハイタッチをして歩いた。
阿部勇樹の「6」を背負ったサポーターに、最高だね!!と背番号を叩き歓びを共有したことを覚えている。

●紅き紋章を地面に叩き付けた 2004年 天皇杯敗戦の『あの時』

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2004年。アテネ五輪後、イビチャ・オシム監督率いるジェフユナイテッド市原(現ジェフ千葉)は2リーグ制だったJリーグセカンドシーズンで2位、総合順位4位。
オシム監督が指名した若きキャプテン阿部勇樹を含め、ジェフ千葉の選手たちが躍動し強さを魅せたシーズンだった。

11月中旬に行われたコンサドーレ札幌(現・北海道コンサドーレ札幌)との天皇杯4回戦。舞台は北海道・室蘭入江運動競技場。
当時はJ2で最下位という位置に沈んでいたコンサドーレ札幌が相手とあり、ジェフ市原が絶対的優位と考えられていた試合だった。

海がすぐ近くにある競技場なので潮風が冷たく吹き、北海道民であっても厳しい寒さを感じる室蘭での試合は13時にキックオフ。
序盤から札幌が果敢に攻撃を仕掛けていた試合だったと記憶している。札幌のゴールマウスを守っていた守護神・藤ヶ谷陽介(ガンバ大阪にて2017シーズンいっぱいで引退)は五輪メンバーには選出されていないもののアテネ世代を目指す世代別で共に戦ってきた阿部勇樹。
何度もあるセットプレーの場面で対峙する姿からはお互いをよく知っているであろう駆け引きが存在するのであろうと思いながら見ていた。
試合は、阿部のCKからジェフの先制で動いたが、その後札幌が同点に追いつき、延長戦へ突入。
日の短くなった冬の室蘭の競技場には照明施設がなく、早い時間からどんどん暗くなっていく中で行われた延長戦だった。
札幌のVゴールが決まり、J1上位のジェフからJ2最下位が獲った大金星と評される勝利を札幌が掴む結果に。

ゴール裏への挨拶へ向かう際、阿部勇樹は自らの腕に巻かれていた赤いキャプテンマークを地面にたたき付けるように投げた。
その姿を観た遠く千葉から駆けつけていたのであろうサポーターが太鼓を大きく鳴らしながら、怒りの声を挙げる。

阿部勇樹は悔しさとイライラをあらわにしたまま、サポーターへの挨拶をそこそこに
サポーターの声にも反応しないまま、ロッカールームへと引き上げた。

千葉の一部のサポーターがチーム関係者に詰め寄る。
俺たちは阿部のあんな姿を観に来たわけじゃない!キャプテンマークを地面に叩き付けるなんて!
阿部ー!!!それはやっちゃいけないんだよ!俺たちはどうしたらいいんだよ!?

その行為はチームを叩き付けた、と取ったサポーターの叫びだった。
涙を流しながら抗議し迫るサポーターの姿を見ながら、プレスルームに戻った。
大きな競技場ではないため、ジェフのロッカールームのすぐ隣にプレスルームが設けられていた。

サポーターの悲痛はまだ聞こえ控室全体に響いている。
扉が開いたロッカールームの中で、阿部勇樹は顔を手で覆い一人じっと座っていた。
そこから滲み出る悔しさと感情を押し殺すような空気。声の聞こえない叫びのようにも感じるその空気と、感情をコントロールして落ち着くためなのか、顔向けできないということなのか、覆った顔。
もしかしたら涙が出ているのかもしれない。もしかしたら自身への怒りを噛み殺しているのかもしれない。覆った手を離すと、潤んだように見える目で天井を見上げるように深いため息をつき、自身を落ち着かせているように見えた。

この空気。この場。聴こえるサポーターの悲痛と、阿部勇樹から出ている殺気立った悔しさと反省。
これを感じる位置にいる者だからこそ、「伝える」ということが使命だと思った。
外では「阿部を出してくれよ!」というサポーターの叫びがこだましている。
札幌サポーターの歓喜の拍手と声援もまだ鳴りやまない。
その中の、阿部勇樹。

『名将が託した若武者へ紅き紋章 腕に巻く覚悟』
という題だったであろうか。その時のことを熱量が冷めないように必死に執筆した。

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『あの時』のことが、サッカーを目の前で見て、感じて
生々しい空気や感情、その時その瞬間に起きていたこと、を文章にして伝えるという私の原点になっている。

ジェフ千葉のホームスタジアムである、フクダ電子アリーナへ行くと、入ったところのロビーに阿部勇樹のユニフォームが飾られている。
それを前にすると、あの室蘭でのことを思い出す。
そして、見えない部分を伝えること、という役割であることを再確認する。

あの世代別の最初から阿部勇樹に特化して注目して選んで、サッカーを観てきたわけではない。
でも今振り返ると、面白いと感じて注目するサッカーの中心に阿部勇樹がいた。
アテネ五輪世代
オシム監督のジェフ
オシムジャパン
南アフリカW杯
浦和レッズ 特にペトロヴィッチ監督時代の浦和レッズ
…このチームは魅力的だ。知りたい。観たい。と感じたチームの中心には阿部勇樹がいたのだ。

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阿部勇樹選手、40歳。
もう20年以上もその姿を魅せてもらったのだと思うと、長いこと本当にいろいろな姿をそしてサッカーをみせていただいたな、と思います。

あの時の、あの姿。あの出来事。思い返すとたくさんあるけど、この2つが勝手に私が大きく受けた影響と思い出です。
私が、うまく伝えられたかはわからない。
まだ駆け出し、いや今も駆け出しのあまり欲のないしがない細々とした執筆者ながら、勝手に与えられた影響を噛み締め今も文章を書いています。

その背中はいつでも、頼もしく信頼できる。
ついていきたいと思える引力が発せられている。
22の真っ赤なユニフォームが緑のピッチに映え、大きな声で周囲の選手たちを鼓舞し、守備と攻撃のバランスを絶妙に執りながらチームを動かす力を魅せる。

その姿を最後の一瞬まで
注目していたいと思います。

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