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夏目漱石「こころ」~語り手の問題~

先日、夏目漱石の「こころ」という小説を読みました。読んで感じたことを、駄文的につらつらと書いていこうかと思います。もろ内容に触れることもあると思うので、それを避けたい方は作品を鑑賞してから読んでいただけますと幸いです。物語のあらすじも、調べたら出てくるので割愛させていただきますね。

さて、この作品、なんじゃこれですね。僕の感覚としては、ストーリーの筋道自体はとてもシンプルな気がします。こんなことを言うと誰かに怒られそうな気もしますが。筋道だけを追うと、ショッキングなことはまあ起こりますが、”小説”という枠組みを前提にとらえると予想の範疇ではあるかと思います。しかし、この小説のすごいところはストーリー軸ではなく感情軸で物語が進行していくという点であると思います。

前提として、この作品は”上中下”の三部構成になっています。語り手は常に「私」です。特殊なのは、”下”において「私」は一度も描かれる対象として出てこないことでしょうか。「先生」の遺書の内容が書き連ねられているだけです。それだけをくみ取ると”下”において語り手は「先生」なのではないかというふうにも感じますが、必ず遺書の区切れの部分にはかぎかっこがつけられているためあくまで語り手としての「私」が先生の遺書を読んでいるという設定に準拠していることになります。(その構造が「私」と読者を自然な形で重ね合わせさせ、物語という枠組みを超越して読者のまさに「こころ」を揺さぶるようなつくりになっているという解釈も楽しいのですが、これは今は余談ということで。)

感情軸で進行しているというのは、つまりこの語り手の問題です。この作品には絶対的な視点を持つ存在がひとつもありません。僕はこの絶対的な視点というものをしばしば「神視点」などと表現します。神視点とはなにか。例えば、童話「桃太郎」のストーリーでいえば主役は「桃太郎」ですが、そのストーリーがどのように進行しているかを伝えている語り手は「桃太郎」本人ではありません。ストーリーの中の登場人物でもありません。この場合の語り手こそが、絶対的な視点です。「むかしむかし…」と語るのは物語の外側にいる神様的な存在なのです。

ではこの語り手が一体なぜ重要なのか。一言で述べれば、「描かれる事実が語り手によって変化しうるから」です。神視点で描かれているのであれば、それはその物語の中では絶対的な真実でしょう。しかし、例えば「桃太郎」が登場人物の「鬼」の視点から語られていたらどうでしょう。桃太郎は悪者、犬・猿・雉はその刺客、おじいさんやおばあさんに至っては描かれていたかどうか。描かれていたとしたら悪の親玉にでもなっていたでしょうか。物語の見方は、語り手が誰であるのかによって容易に変化しうるのです。

話を「こころ」に戻すと、この作品の語り手は「私」です。「私」から見た「先生」、「私」から見た「両親」が多様な表現をもって描かれています。この視点の問題に気が付いたとき、ふと考えることがあります。それは、この話はどこまでが真実に基づいているのだろう、ということです。そしてそれを考えた直後にさらにひらめきます。ああ、真実なんてどうでもいいのかもしれない、と。僕だけですかね(笑)。

この真実なんてどうでもいいのかもしれないという感覚こそが、ストーリー軸ではなく感情軸で物語が進行していると考えた依り代です。「私」目線の物語にしろ、「先生」目線の遺書にしろ、それぞれにそれぞれの真実があるのです。そしてこの作品は「何が起こったか」ではなく「何をどうとらえたか」という主軸で語られていきます。

さらに面白いことに、物語が終わりを迎えることによって、この物語は終わりを迎えない物語として完成してしまいます。ちょっと自分でも何言ってるのかわからなくなってきましたが(笑)。この作品は「私」視点で描かれているのに、「先生」の遺書を読み終わった後の「私」の視点が一切描かれていないんです。「こころ」を読み終わった人は大体、「それで、そのあとは!?」ってなると思うのですが、そのあとの記述が一つもない。「先生」は亡くなったのか、「父」は息を引き取ったのか、「私」はそのあとどのような心持ちになったのか。描かれません。

僕は読み終わった後、そんな状況になりました。(終わらない物語が好きなので僕としてはすごく心地がいいのですが。)そのあとに「こころ」というタイトルに立ち返ると、僕の中に新しい疑問が生まれてきます。これは一体、誰の「こころ」のお話なのか。いろんな答えがあると思います。しかし僕にはどうしてもそれが「先生」の独白としての遺書を鏡にして映し出された、「読者のこころ」なような気がしてなりません。僕らがこの作品を語り手となって誰かに説明するとき、どのように表現するでしょうか。「私」は、「先生」は、どのような人物でしょうか。そこに語り手としての僕らが表れるとしたらどうでしょう。物語はいつでも読む人の鏡となって感受性に働きかけるものだと思います。殊にこの「こころ」という作品において、先生の遺書はその鏡としての解像度が非常に高いのではないでしょうか。

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