流れる思考と文章のような何か

「感性」と入力しようとすると自然に手が「感染」と入力している。そんな世紀末のような習性は、日々記事の中で何度も新型コロナウイルス感染症についての文言を書いていることから生まれるものなのだろうと思う▼この文章には目的もテーマもない。いや、テーマといえば、テーマがないことがテーマだろうか。ただ行きどころのない文章を自然な思考、あるいは惰性的な有意識の残りかすに身を任せながらつらつらと書いた先に生まれるものが見たいだけなのである▼しかし一つ疑問が生じる。この文章はひたすら流れゆくままに書いているのだが、そうやってもし何か一つの表現が出来上がったとして、それは一体誰が書いたものなのだろうか。いやたしかに文字を入力しているのは私なのだが、私はその文章を「書こう」と思ったわけでも、「こうしよう」と思ったわけでもない。それが一体全体、「私の」文章といえるのであろうか▼しかしここで新たな疑問。私はなぜその文章の所在地を求めているのだろうか。私は知的所有権という考えを認めていない。知など、所有できるものではあるまい。私のこの文章だって、これまで生きてきた風景や知覚の中でなんとなく学習してきたこと、培ってきたことがベースにあるからこそ一応の文法を持って成り立っているわけである。完全な「私のもの」「オリジナル」であるなら、それは少なくとも一定の言語体系を持っていることすらいけないのではないか▼おそらくどこかで自己同一性とかいう悪魔に救いを求めようとしているのだろう。「私」という存在をあろうことか世俗的な社会の中で証明したがっているのである▼「感性」と入力しようとして「感染」と打ったとき、その言葉は誰が入力したものか。それはキーボードに力を作用させた「私」かもしれないし、そこまでの私を形成させた「社会」かもしれないし、あるいはその名前を冠しながら繁栄を続ける「コロナウイルス」様かもしれない▼毎秒流れ行く思考をなんとかそのまま文章にとどめておこうとする試みによって、こんなたわいもない何かが出来上がった。しかし恐ろしいのは、この文章もまた、流れ行く思考を純粋に観察し文章に起こしているだけなのか、「書く」という必要性によって生み出された思考なのか、その出身が定かではないというところか。【稜】

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