見出し画像

学問論:学問について(2) 学問にとっての「戒定慧」

学問論:学問について(1) 専「門」の内と外

 前回は、門外漢の立場から「学問」というのは「場所」であって、その内側で行われていることである、ということを考えてみましたが、当たり前すぎる内容だったかと思います。
 そこで今回からは、あまり門外漢と言って済まさず、なるべく役に立ちそうな手掛かりを頼りにしながら、もう少し明確に「学問」なるものを描き出してみたいと思います。

仏教の「戒定慧」

 まずは宗教に手がかりを求めてみます。
 仏教に「三学」という言葉があります。その内容を表すのが「戒定慧かいじょうえ」です。
 これは、仏教の初期のころから言われていたことらしく、上座部(いわゆる「小乗」)でも大乗仏教でも、出家して修行する人たちに求められたものでした。
 具体的な説明を『岩波仏教辞典 第二版』で見てみます。

仏道を修行する者が必ず修めるべき三つの基本的な修行の項目、戒学・定学・慧学の三つをいう。(中略)三者の関係は、戒を守り生活を正すことによって定を助け、禅定の燈心によって智慧を発し、智慧は真理を悟り悪を断ち、生活を正し、結果として仏道を完成させる。不即不離であるこの三者の学修を通して仏教は体現されるが故に、三つの基本的学であるとされる。

中村元ほか編『岩波仏教辞典 第二版』

 簡単にいうと、「戒」は戒律、つまり決まり事で、「定」は禅定、つまり瞑想などの実践、「慧」は智慧、つまり真理を悟ることだと言っていいでしょう。つまり、戒律を守って瞑想をして悟りに至る、というプロセスを指すのだと思います。
 仏道を学ぶためにはこの3つを辿らないといけない、ということなのですが、これは現代の学問にも当てはまるように思います。

 ある学問について全くの門外漢という人が、その学問の専門書に目を通したり、専門家の話を聞いたり、また実際に研究している場に居合わせたりすると、この人たちは何を言っているのか、何をしているのかわからず戸惑うことが多いと思います。
 例えば社会学について全く無知な人が「社会学」という言葉を聞いても、「社会」について研究する学問であることくらいは何となく察しがつくでしょうが、具体的に社会の何をどう研究するのかは想像もできません。そんな人が、社会学者から研究目的で送られてきたアンケートを眺めても、このアンケートによってその社会学者は何を知ろうとしているのか、見当がつかないと思います。
 このわからなさは、前回の考察を踏まえて言うと、「学問」という領域の内と外とのギャップから来ているのは明らかです。このギャップの内容となるのが専門的知識、あるいはもうちょっと縮めて「専門知」と呼ばれるものです。
 この専門知の具体的な内容を、「三学」を手掛かりにして、「規範」「実践」「真理」の3つに分かれていると考えてみます。

学問の3要素①:「規範」

 先ほどの社会学の例のように、ある学問が何を具体的な研究対象としているかは門外漢にはわかりにくいことが多いと思います。
 そこでその学問の入門書を手に取り開いてみると、序文や序章で、この学問ではどういうことを学び、研究しているかという説明が書いてある。研究対象が決まっている、ということは当然、研究しない対象も決まっている、ということになります。実際、生物学でシュレディンガーの波動方程式について考察することは(多分)ありませんし、経済学で葛飾北斎の水の描き方を研究することもありません。
 つまり学問の研究対象について、それぞれの学問の中で「規範」が存在するのだといえます。確かに、「学科」や「学問分野」のことを英語で "dicipline" といいますが、 "dicipline" には「規範」「規律」「しつけ」の意味もあります。

 もっとも "dicipline" が上記の2種類の意味をもつのは、研究対象が「規範」として存在していることだけでなく、それぞれの学問の内部にさまざまな規範が存在していて、その規範の違いによって学問が区別できるということでもあるのかと思います。
 もちろんどんな学問にも当てはまる規範もあるでしょう。国の法律を守らなければいけないという当たり前のこともありますが、実験結果の捏造や他人の論文からの盗用は、学問分野に関係なく、決してしてはいけないことです。
 またあらゆる学問とまでいかなくても、複数の学問に当てはまる規範もたくさんあるでしょう。そういえばSTAP細胞の騒動(あれからもう10年が経ちました…)の際に、本来なら膨大な量になるはずの「実験ノート」がごくわずかしかないことが問題視されました。つまり自然科学に属する学問の実験において「実験ノート」を取ることは「規範」となっているわけです。
 その一方で、同じ学問の内部に属していても、従うべき「規範」が人によって異なるということもあるだろうと思います。下位分類による違いはもちろんですが、「学派」「学統」というようなものがあると、学問に対する考え方や理念がそもそも異なっているために規範も異なってくるのではないかと推察されます。

 学問の研究は専門家にとって職業ですから、学問の分野を1つの「業界」として見ることができます。そしてどんな業界にもその業界のルールがあるのと同様、学問の世界にも業界ルールがあると思います。
 学会への入会資格だとか学術誌の査読システムなどもそうですが、ときには理不尽な掟がが研究にまで影響を与えるということもあるでしょう。そういえば、「バカの言語学:「バカ」の語誌(7) 『甲陽軍鑑』」で見た『甲陽軍鑑』の偽書説も、根拠のない「規範」、というか「業界ルール」として、日本中世史学界内に継承されてきたのではないか、という疑いがあります。

 こういったさまざまなレベルで存在する学問の「規範」は、もちろん学者たちの討議によって決められたものもあるのでしょうけれど、大部分は誰が言い出すともなく、歴史的に形成されたものなのだと思います。中には、研究者たちに自覚されることのない暗黙の前提が「規範」として機能し、考え方や物事のとらえ方を規定することもあると思います。
 ただ「歴史的に形成される」ということは、必ずしも不変で絶対的に従属しなければならないものとは限らない、ということでもあります。「暗黙の前提」についても、いつの間にか変わったり、あるいは意識化されて棄却されたりします。有名な例では、ニュートンの力学が暗黙の前提としていた絶対空間、絶対時間という枠組みが相対性理論によって葬り去られた、というのがあります。また経済学だと、経済行動の主体が常に合理的な判断をするという前提(経済人ホモ・エコノミクス)がかつては疑われることがありませんでしたが、現在ではすでにいろいろな形で批判されています。

 このように「規範」は絶対的なものではありませんが、それでも学問の内部を何らかの形で拘束する、研究者にとって外在的な(つまり研究者の体の外にある)条件になっていると考えることができます。

学問の3要素②:「実践」

 仏教の三学における「定」は、座禅や滝に打たれる水垢離のような荒行、あるいはお経を読んだり護摩をたいたりと、体を使った実践です。
 同じように学問における「実践」も、研究者たちが体を使って行うものです。ただしこの体の中には、頭も含めなければなりません。頭の中に貯め込んだ学術的な知識を引き出して、比較対照したり、論理で結び付けたりすることは、顕微鏡を覗いたり、遺跡を掘ったり、森林の中を歩いて調査したりするのと同じように体を使った、学問の「実践」です。
 「実践」の指針となるのが「規範」ですから、「実践」は「規範」に反しないのが普通です。しかしただ「規範」に従属する、というわけではないと思います。
 この点は、スポーツのルールと実際のプレイの関係によく似ています。例えばサッカーではゴールキーパー以外、ボールを手や腕で扱うことができない(もちろんスローインのときを除いてですが)と定められています。しかし脚でボールを扱うテクニックまでルールブックに書いてあるわけではありません。またオフサイドのルールに対して、オフサイドトラップをかけるとかギリギリのタイミングで相手のディフェンスラインの裏に抜けるとかいったことは、ルールへの従属というより、ルールに対して選手たちが工夫して対応しているのだといえます。
 学問においても、「規範」に反することなく目的に達するために、研究者たちは「方法」を工夫していると考えられます。
 そしてスポーツにおいて、ゲームをつまらなくするプレイが目立つようになるとルール改定が行われるのと同じように、学問においても「規範」が「実践」を滞らせることがあると、「規範」を変えることがあるのだと思います。科学哲学者のファイヤアーベントは「科学もまた研究をすることの結果ではあっても、規則に従った結果ではない」と言っています。

 先に業界としての学問について触れましたが、「実践」についても、学問の業界人たちがこの業界の性格やルールに応じて行う「実践」もあります。
 例えば学者が研究のテーマを決める場合に、研究にかかる費用の出し手である企業や国の気に入るような研究がよく選ばれてしまうということがあるようです。そういう偏りが出ないように、かつては「学問の独立」ということが理念として掲げられていたのですが、高度成長の終焉でどこも台所事情が苦しくなってくると、理想論ばかり言ってられない、ということなのかと思います。
 また、研究内容についての規律との関係でいうと、ほとんどの学問では「客観性」や「中立性」が求められますので、業界内で高い評価を得るために「客観性」や「中立性」を確保しやすい研究、特に実験などの結果が数値化できるような研究が好まれることも多いようです。
 脳科学者の坂井克之は、こういう傾向について「方法論が目的論を規定する」といっています。本来なら目的が方法を規定するはずなのに、ということでしょう。「文系学部なんてなくせばいい」などと言い出す人がいる背景の一つとして、業界としての学問のこういう状況もあるのかもしれません。

学問の3要素③:「真理」

 ここまで見てきた「規範」と「実践」は、学問に限らずビジネス、スポーツ、ゲームなど、社会の中で行われるいろいろな事柄に見られることであって、学問に特有というわけではありません。
 しかし「規範」を守って「実践」することの目的が「真理」であるのは、仏教も含めて修行を行うタイプの宗教のほかには、学問しかないのではないかと思います。
 ただ、仏教の出家僧たちが目指している「真理」は、2千数百年前に釈迦が菩提樹の下で悟った「真理」と同じものです。細かい話はわかりませんが、大まかにいえばそう考えていいと思います。つまり仏教における「真理」はすでにそれを知っている人がいるものです。
 それに対して、大学や研究機関で研究者たちが目指しているのは、まだ誰も到達していない「真理」だと思います。これについても細かいことをいうと例外はいろいろあるのでしょうけれども、ごく大まかにいえば、学問における「真理」は、仏教のようにすでに誰かが到達している真理ではなく、初めてこの世に現れたものなのだろうと思います。

 ですから、宗教的な修行の目的が「真理」への到達、あるいは「真理」の修得であるのに対し、学問の目的は「真理」の生産である、ということができます。
 「生産」というと、都合よく作られたもののようにとらえられかねませんが、工場で作られる商品がメーカーの都合だけで作られるわけではなく、需要があって役に立つものでなければならないのと同じように、学問が生産する「真理」も何らかの意味で(この「何らか」は幅広く考えていいと思います)役に立つことが求められます。そしてやはり商品と同じように、社会へと「出荷」され、流通し、消費されるわけです。
 「真理」が流通するのは学問の外部においてだけでなく、それを生産した学問の内部でも流通します。現実には、学問の内部での流通量、消費量のほうが圧倒的に多いのかもしれません。生産された「真理」がその学問の内部に流通することによって、さらなる研究の「実践」につながったり、また新たな研究の前提として「規範」となったりすることもあるのだと思います。
 もちろんここでいう「真理」は、必ずしも覆しようのないものとは限らず、「仮説」と呼ぶものも含めてよいでしょう。また、新たな視点の提示のようなことも「真理」と見なせます。こういったことはその学問の性質によって規定されるのだと思います。ですから学問の「規範」には、どういうことを「真理」と見なすかについての規定も含まれるのだろうと考えられます。

「専門知」および「学術知」

 仏教の「戒定慧」が「三学」と呼ばれていたのは、この3つそれぞれについての「学」がある、ということです。学問の3要素である「規範」「実践」「真理」についても、その学問の専門家をめざす人たちは3つそれぞれについて修得しなければなりません。
 その修得する内容、つまり学問の3要素それぞれについての知識を、この文章のはじめのほうで「専門知」と呼びました。専門知は3種に分けられ、それらのいずれをも持つ人が「専門家」である、ということになります。

 「専門知」は「学術知」と言い換えることもできそうです。
 しかし、「専門知」が特定の学問に関わる知識なのに対し、「学術知」という場合は必ずしも専門分野に限定されず、学際的な研究において複数の分野の専門家たちが共通理解として持ち合う知識も含まれると思います。
 ですから「学術知」は「専門知」より広い意味をもつ、とここでは考えたいと思います(あくまで、私が今後そういうつかい方をする、という話ですが)。

 * * * * *

 前回に比べれば、だいぶ具体的に「学問」という場所の内部について描けたかと思います。
 次回からは、今回挙げた3要素、「規範」「実践」「真理」のそれぞれについてさらに突っ込んで考えてみたいと思います。どんな学問についても門外漢の私にどこまで踏み込むことができますか、「~と思います」「~と考えられます」が多くてまどろっこしいかもしれませんが、どうかお付き合いくださいませ。

◎参考・引用文献
中村元ほか編『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店、1989-2002年
P・K・ファイヤアーベント、村上陽一郎訳『知とは何か 三つの対話』 新曜社、1993年
坂井克之『科学の現場』 河出書房新社、2015年

学問論:学問について(3) 学問における「規範」

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?