木村拓哉は文化だ

最近、木村拓哉のYouTubeチャンネルにハマっている。
木村拓哉というのはいくつになってもかっこいい。

私は1998年、平成10年生まれであり、平成を抱いた男、木村拓哉ドンピシャ世代ではない。
ジャニーズで言えば嵐世代である。

そんな私でも、木村拓哉を見ると「かっこいい」以外の感想が出てこない。

なぜ木村拓哉はかっこいいのだろうか。さらに、そのかっこよさは刹那的でない。ずっとかっこいい。世代を超えてかっこいい。

その答えには、動画を見ているときにふとたどり着いた。

木村拓哉は、木村拓哉じゃなければ許されない言動を取る。例えば、つまらない小ボケをしたりする。それでも木村拓哉はかっこいい。
つまり、何をしてもかっこいい。ということは、かっこいい、とは木村拓哉なのだ。

かっこいい、は木村拓哉の部分集合なのである。

私たちが普段生活していて、誰かに対してかっこいい、と思う。それは自分の中にあるかっこいいの定義に合致しているということである。そして、そのかっこいいの定義は木村拓哉によって定められている。

木村拓哉とは、もはや文化なのだ。

話は少し変わり、スターとは? という命題について考えてみる。私が思うに、スターとは、文化を創り出す者だ。
凡庸な我々はスターの後追いをするしかない、文化的羊なのだ。

その点において木村拓哉はスターだ。

木村拓哉が流行らせたものはたくさんある。
私は世代ではないが、木村拓哉の真似をしてポーターのタンカーを買ったり、goro'sを買ったりした人も多いだろう。

多様性の時代がやってきて、かっこいいの定義も広くなっている。それでもやはり、木村拓哉はかっこいい。木村拓哉の前にはひれ伏すしかない。しかし、それは決して暴力的でない。まるで当たり前かのようにかっこいい。

多分もう、木村拓哉のようなスターは生まれない。
スターとは文化であり、文化とは画一的であるからだ。
多様性の時代にそんなものは生まれないし、認められない。

お金を稼ぐのがスターではない。
スターとは世界に一つの価値観を示し、その価値観を文化にまで昇華させる。

そんなスターはもう現れない。

サポートされると税金とかめんどいっす