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ベトナム・ダナンで経験した「自分のあたりまえが誰かの当たり前ではない」ということ。

もう6年も前になる。僕は人生の大きな分岐点に突然立つことになった。それはお世辞にも褒めらるような行動を主体的にしたとはいえないが、20年間生きてきたその価値観を一変されることになった。

「自分のあたりまえが、誰かの当たり前ではない」世界。

それは僕にとって、あまりにも衝撃的な出来事であり、この経験がなければ、今こうして「社会課題」と向き合って、仕事をしていることはなかったと断言できる。

そもそもこのテーマを書こうと思ったのは、今、世界では「分断」が進んでいるというニュースを改めて頻繁に見るようになったからである。グローバル化が進んだ現代社会では、国家や民族という従来明確にあった単位を飛び越えて混じり合ってきた。それが今、様々な背景を抱えて、再びナショナリズムとはなにかという議論と共に、大きな分断を生む要因になっている。つくづく、この手の問題は根が深く、正解のない話だと思って、いつもモヤモヤする。

僕はこの分野の専門家ではないので、これ以上の言及は避けるが、大学時代に読んだベネディクト・アンダーソン氏の「想像の共同体」に感銘を受け、卒業論文のテーマには『国民国家の形成にはどう歴史教育が関わるのか』を主題に、インドネシアの問題を取り上げた。

この本の要約がWikipedia先生に書いてるので、引用しておきます。内容と今回僕が伝えたいことは全然関係ないので、この本について解釈をすることは割愛します。

アンダーソンは、ナショナリズムの歴史的な起源について考察するために国民国家が成立する以前の段階に着眼し、宗教的共同体と王国が社会の組織化のために果たした役割を指摘する。国民とは、これらのシステムが衰退するにつれて登場した新しい共同体であり、これを推進したのは資本主義経済の成立、印刷を通じた情報技術の発展であるとアンダーソンは論じている。なぜなら、出版産業は国民意識の基盤を提供し、新しい形の想像の共同体を可能とした。この共同体が成立する18世紀から19世紀にかけて、国民国家が登場する。国民国家は行政組織として形成されたが、その組織内部での交流を通じて成員の間に共通の時間、空間の認識が生み出され、同時に同朋としての意識を共有するに至った。アンダーソンによれば、大航海を通じて発見された外国語は自国の言語の比較的な研究を可能とし、言語学者や文学者、知識人がナショナリズムを育む文化的基盤となった。

これらの歴史的な経緯を経て、19世紀には公定ナショナリズムという新しいナショナリズムの形態が確立される。これは国民を統合するという政略的な意図に基づいて国家により定められたナショナリズムで、伝統的な王朝の原理と革新的な国民の原理を総合する特徴が認められた。アンダーソンはナショナリズムが言語によって想像された共同体の一種の形態であると捉えながら、人々が国民に対して特別な愛着の感情を持つ根本的な理由として、国民という言葉には自己犠牲を伴う愛情を喚起すると説明している。


少し余談が過ぎたので、僕の人生を変えたベトナム・ダナンでの1ヶ月を振り返っていきたいと思う。始まりは大学1年生の春まで話が遡る。

「海外で日本語を教えてみませんか?」

たしかこんな触れ込みだったような気がする。大学内に掲載された1枚のビラに、大学入学直後の僕は目をとめた。

もともと大学に入ったら留学をしたいと思っていた。幼少期から家にたまにくるオーストラリア人のデイビットという父の会社の友人の影響もあり、海外に憧れを抱いていた。はじめてのホームステイは中学3年生のときに行ったニュージーランド。ちなみにこれまで20カ国行って、日本以外で唯一一生住みたいと思った国がニュージーランドだ。その時の経験が良すぎたので、大学に入った留学は絶対しようと思っていた。

でも正直英語には興味がなかった。そもそも英語苦手だし、英語を勉強に留学に行くのは、周りの先輩からやめたほうがいいよって言われていたので、相当なバイアスをかけていたんだろうな。まあとにかく語学留学以外の目的で、留学に行きたかった僕に、このキャッチコピーは刺さった。

興味本位で親にも相談せず、「まあエントリーシートだけ送ってみるか!」と送ったら、まさかの合格。大学がかなりお金を負担してくれることもあって、親も速攻快諾してくれた。ちなみにこのプロジェクトには25名程度の参加者がいたが、大学1年生は3人だけだった(笑)

正直この段階では何をやるのか全くわかってなかった。もちろん僕の人生を180度変えてしまう経験ができることも知る由もない。好奇心って重要だ。

このプロジェクトのことを説明したいわけではないので、ここからはダナンにいくまでの過程を圧倒的なショートカットを駆使し、雑なサマリーをお送りします。

プロジェクト概要
・主旨は、海外で日本語を学びたい人たちに現地まで行って教えてこいというもので、グローバル人材育成の一環のプロジェクト。
・プロジェクトは1年半に渡るもので、最初の半年はオリエンテーションや講義の受講、その後イギリスのIIELという期間で1ヶ月座学と実習をみっちり行う
・帰国後再び言語学などを勉強したのち、世界各地に派遣され、そこで1ヶ月弱教育実習をする
・最終的には国際的な日本語教師の資格を取得できる

時を早送りしよう。

イギリスから帰国した僕は、次の実習地をどこにしようか迷っていた。いくつか候補地があったのだが、取り分け最も興味があったのは中国だった。中国は隣国ではあるが、当時は今ほど先進的っぽくなく、どこか牽制していたような気がするが、一回は行ってみたい場所だった。もう一つはオーストラリア。純粋に好きだから行きたいというだけの理由だった。

あれ、ベトナムは?そう思った方も、そうでない方もいるだろうが、当時ははっきり言ってベトナムという国は知っていたが、『ダナン』という場所がどこにあるかも、いやそんな場所があることすら初めて知った。今でこそ、世界の中でもリゾート地としてブランディングされ、日本からも直行便が出ているが、6年前は友人に聞いても、その存在を知っている人は一人もいなかった。行く場所を決める前に事前説明会があったのだが、記憶している限り、ベトナムを第一希望で考えている人はいなかった。

ただ中国やオーストラリアは人気だったし、行ける人数も限られていた。こういう時に発揮する後輩的キャラの僕は、先輩に譲ろうと考えていたので、説明会を聞いて直感で面白そうな土地に行こうと決めた。

「ダナンは海が綺麗だよ!」

そんな純粋なキャッチコピーにまたしても、好奇心が働いてしまい、僕はダナンに行くことに決めた。

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そんな経緯でダナンに行くことになったのだが、その時が初の東南アジアだった。当時はなんとなく東南アジアというと、まだまだ発展途上で、衛生的に大丈夫かな?とかスリに合いそうだし、治安も悪そうだなという固定概念を持っていた。

不安は大きかったが、せっかくならいろんな土地に行ってみたいという気持ちで、ベトナム・ダナンに向かうことにした。ダナンは縦長のベトナムのちょうど真ん中に位置する港街である。街の中央には湾のようなものと土地をつなぐ橋が何本もかかり、夜になるとライトアップされ、ロマンチックな雰囲気を醸し出す。また海が絶景で、留学中は毎日現地の子に海に連れて行ってもらって遊んでいた。

当時はまだ観光客もそれほど多くはなく、ローカルな雰囲気が色濃く残るのどかな街だった。僕たちは、現地にある大学で日本語を教えることになっていた。当然ベトナム語は喋れないので、まあまあの緊張感のなか、初日に大学へ挨拶に向かったのだが、先生たちがバリバリ日本語を喋れたので、一瞬で安心したことを覚えている。

実は現地に行くまで、あまり詳しい情報はなかったのだ。このプロジェクト自体、僕らが2期生で、1期生の受け入れはダナンはなかった。なのでよく分けもわからずに、とりあえず「頑張ってきて!」と謎の励ましをもらって出国していたのだ(笑)

そんなこんなで緊張もほぐれ、2日目から早速学生に向けて授業を受け持つことになった。一般的な大学と同じ4年制ではあるが、ここの大学は「日本語を学ぶためにできた大学」ということで、1学年100名くらいの学生が、毎日日本語を学んでいる。4年生にもなると日本語は普通にペラペラで、全くコミュニケーションに支障がないレベルだ。僕らは2〜4年生のクラスを受け持つことになり、おそらく生涯最初で最後の授業計画なるものを毎日作っていた。

最初の1週間くらいは慣れるのに必死過ぎて、「この子たち日本語ペラペラですごいな」くらいにしか思っていなかった。すごくフレンドリーで気さくな子が多く、授業が終わると、バイクの後ろに乗せて街を案内してくれる歓迎っぷり。ちなみにベトナムはバイク大国でとにかく日本では考えられない光景が繰り広げられている。

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法的にいいのかよくわからないが、日本の原付バイクのようなものに親が子どもを4人抱えて乗っているなんてざらに目にする。しかもほとんど信号がなく、ほぼ性善説に基づいて運転をしているので、まあまあ死にそうになることが何度かあった。が彼ら彼女らは一切動じることがなく、

「しゅーへいさん、ビビりすぎたよ(笑)」

とよくからかわれていた。ちなみに本当に怖いので、ベトナム行った際は注意してください、みなさん。

そんなこんな怒涛の1週間が経過したタイミングで、現地にいたJICAの職員の方と食事に行かせてもらう機会があった。日本人からみたベトナムの今の現状についていろいろとお話を伺っていく中で、漠然とすごいなと思っていた学生たちのリアルな現実について、すごく考えさせられるようになっていた。

なんで日本という小さな島国でしか通用しない言葉を4年間かけて学ぶのだろう。

これが僕の頭には浮かんできた。

たしかに日本はまだ世界的に見ても先進国であり、強い産業もたくさんある国だ。グローバル展開しているメーカーも多く、ベトナムにも多くの日系企業が進出をしている。それでも、なぜわざわざ日本語を学ぶのだろうか、そこには日本の文化が好きとかアニメが好きとかそういう理由だけではない複雑な現実があることを、そのときは想像もしていなかった。

振り返ってみれば、これまで発展途上国に行ったことが一切なかった。日本やオセアニア、アジアの中でも発展している韓国やシンガポールといった比較的国レベルでは豊かな場所(もちろんそこに住む人たちのなかで格差があることは理解していますが)にしか目を向けて来なかった。

そんなことをホテルで一人振り返りながら、率直に思った疑問を、翌週直接聞いてみようと思った。なぜ彼ら彼女らは日本語を学ぶのだろうか、そこにはどんな想いが隠されているのか、それをぶつけてみた。その答えは、当時の僕にとって衝撃だった。

自分たちの親はベトナムの会社に勤めていたが、給料も安く、支払われないこともしばしばあってすごく苦労してきた。でもベトナムにある日系企業は給料も安定しており、支払いもされるから、家族を養ってあげられる。だから日本語を学んでいるんだよ。

言葉が適切かわからないが、素直にショックだった。だって彼ら彼女らは、僕よりも遥かに優秀だった。母国語はもちろん、英語だって不自由なく操れる。そして日本語も4年間でペラペラに喋れる。人柄も素晴らしいし、何より日本に対しての理解が深い。

そしてこう続けた。

しゅーへいは羨ましい。日本ではこうやって留学したり、いろんな仕事選べるよね。私は日本に行きたくてもなかなかそういうチャンスがないんだ。

なんだかすごく申し訳ない気持ちになった。そうだよね、そうなんだよね。この環境はあたりまえじゃないんだよね。普通に学校に通って、習い事をして、部活に入って、大学では留学して、就職活動して自分のやりたいことを見つけていって、毎月給料をもらえて、転職だってできる。そんな僕が当たり前だと思っていた世界は、ここにはない。

今まで僕が当たり前だと思っていた、見ていた世界は、決して世界の誰かの当たり前ではない。

それからいろんな話をした。どんなふうに彼ら彼女らは生きてきたのか、どんな想いで今を生きているのか、将来どうなりたいのか。僕はまともに20年間そんなことは考えてこなかった、そんな自分がすごく恥ずかしくなった。僕の知らなかった世界がたくさんある。僕が当たり前だと思っていた環境が、どれだけ恵まれていることなのか、痛感した。

このままではだめなんだ。せっかくこの環境にいるなら、僕にしかできないこと、精一杯できることをやろう。


それから数年後。何人かの生徒と、日本で再会した。難しい環境でも、決して夢を諦めず、こうして日本に来て、志を持って働いている。

僕も頑張らなければ。そして、この経験、あの時に感じた恥ずかしい気持ちを絶対に忘れてはいけない。

自分のあたりまえが、誰かの当たり前ではない。

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