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マックの裏側 第8回目

7)ジョン朝原氏の最終のゴールは藤田田の後継社長であった

 日本マクドナルドは、1972年に米国マクドナルド・コーポレーションと藤田田(当初は第一屋製パン25%、藤田田25%であったが)が20年契約で作った合弁会社であり、契約更新はないものであった。(1990年ころ急に契約が30年に延長となった。これは日本の江の島店を世界5000号記念展として1980年代に開店した際に、まだ元気だったレイクロックが来日し、その際藤田田氏が直談判で獲得した)ということは1992年から2000年ころには、米国マクドナルド・コーポレーションが100%所有する子会社となり、藤田田の後継者を育成していなくてはならなかった。これがジョン朝原の最大の使命であり目標であったのだ。
 ジョン朝原が来日して最初の任務は、店舗を運営する店長の育成であり、次が複数店舗を管理するスーパーバイザーの育成であった。そして3番目に育成したのが、スーパーバイザーを統括する運営部長であった。その任務に抜擢したのが川村龍平氏であった。
川村龍平氏は最初のスーパーバイザーを経て、最初の運営部長に就任した。口数が少ないが信念を持った聡明な指導者であった。
 ジョン朝原の次の仕事は、店舗運営部や本社の組織作りだった。川村龍平氏を東京の本社に運営部長としておいて、運営部の組織づくりと、本社他部への人材供給、本社の組織づくりを上記のように行った。
 ジョン朝原が参考にしたのは米国の組織であった。米国マクドナルド・コーポレーションのCEOになるのには店舗経験が必要不可欠だった。店舗経験とは、店長、スーパーバイザー、統括スーパーバイザー、フィールドコンサルタント(フランチャイジーのスーパーバイザー)、運営部長のステップであり、最後の経営者としてのキャリアとして地区本部長を経験することであった。
 地区本部長とは、スーパーバイザー(部下に6-7人の直営店長を持ち)、統括スーパーバイザー(6-7名のスパーバイザーを管理)、フィールドコンサルタント(十数名のフランチャイジーを管理)、運営部長(2-3名の統括スーパバイザー、直営店舗100-150店舗程度)、合計で300から500店舗の管理だ。
 スーパーバイザー、統括スーパーバイザー、フィールドコンサルタント、運営部長と地区本部単位で損益計算書が作成され、厳しく利益管理を競わせる。
地区部長は既存店舗の管理はもちろん新規店舗の出店と既存店の改装、人材採用とトレーニング、売り上げ促進の地区広告宣伝計画を担う。

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