『凸凹息子の父になる』14 雛人形と前歯
春が来た。今年も妻は、雛人形を飾っている。
長女の初節句の時に、お袋と義母が仲良く二人で人形を選びに行った。一般的に妻の実家が用意ものするらしいが、娘のいないお袋立っての願いで義母と共同購入することになった。
そして二人のばあばが、お互いのプライドをかけて張り込んだ結果、非常に豪華な一式が我が家に届いた。お陰で仕舞うのも飾るのも、場所もとるし手間もかかる。
しかし毎年人形を飾ると、部屋が一気に華やぐ。子供たちは雪洞に明かりを点し、菱餅やひなあられを供えて気分に浸った。
そして次女と息子が保育園で作ってきた雛人形も、一緒に飾られた。それぞれの個性が出て、味がある人形だ。
が、翔太が作った雛人形を見て妻が大笑いした。
「見てよ、このお雛様」
見ると雄雛はメガネをかけ、髭を生やしている。そして女雛には、扇子で隠れたところにオッパイが描かれていた。
どうやら、私と妻を模して作った雛人形のようだった。翔太にとって私の必須アイテムはメガネと髭で、妻はオッパイらしい。
子どもの感性には、驚かされる。
節句が過ぎると、妻は早々に雛人形を片付けた。
雛人形を出しっぱなしにすると、娘が嫁に行き遅れるという言い伝えがあるそうで、妻の実家ではすぐに片付けていたそうだ。
言われてみれば妻も義母も、結婚は早かった。まあ、それも偶然だろうとは思うが、妻はマスクをして白い綿の手袋をはめ、羽箒で埃を払いながら、慎重に片付ける。
まるで博物館の学芸員が、古代エジプトのファラオの装飾品を取り扱うかのように、一つ一つの調度品を購入時と同じように箱に収めていた。
保育園に通うのは年長組の次女と年少組の翔太の二人になった。その次女も先日卒園式を終え、登園もあと数日で終わりになる。
保育園には長女の入園から翔太の卒園まで、八年間もお世話になることになる。子ども達が全員小学校に上がるまでの期間が、こんなに長いとは思ってもみなかった。
土曜日、保育園に次女と息子を迎えに行った。土曜日はお昼寝用の布団など持ち帰る荷物も多いので、いつも妻と二人で迎えに行っている。
子供たちは親が迎えに来るまで、ビデオを観ながら待っていた。歩いて来る私たち二人に気がついた保育士さんが、次女と息子に支度をさせているのが見える。
保育園の中に入ると、まだ雛人形が飾ってあった。七段飾りの見事なお雛様だ。
向うから帽子を被りリュックを背負った子供たちが、駆け寄って来る。
その後ろからマコ先生が、子供たちの布団の入ったバッグを持って来てくれた。
マコ先生が笑顔で言う。
「翔君って、ほんと面白いお子さんですよね」
「あ、はい」
マコ先生は次女のクラスの担当のはずだが、翔太は保育士さん達の間で有名なのだろうか。翔太のクラスの美奈子先生も、笑いながらうなずく。
「もう翔君には驚かされっぱなしで、本が一冊書けそうですよ」
私と妻は顔を見合わせた。詳細を聞かなくても、だいたい想像はつく。保育園でも保育士さん達は、翔太に手を焼いているのだろう。
「いつも、ご迷惑をおかけして済みません」
「いえいえ、ご迷惑だなんて。子供らしくて可愛いかですよ」
さらりと言ってのける美奈子先生に、プロ意識を感じた。
「それにしても、立派なお雛様ですよね」
妻が話題を変えた。
「立派でしょう。少しでも沢山の人に見ていただきたくて、毎年三月の終わりまで飾っているんですよ」
その言葉に
「困ったな、私、嫁に行き遅れるかもしれん」
とマコ先生が言った。
「そうよ、保育士不足やけんね。マコ先生には長くおってもらわんと」
美奈子先生は、冗談っぽく本音を言った。私たちは笑ったが、心の中で思った。
まさか雛飾りの裏に、同僚の寿退職を阻止する狙いがあったとは。
次の日の日曜日は、義父母のジョンとリサさんと一緒にホテルのランチバイキングに出かけた。
この海辺のホテルは景観が抜群である。加えて料理も地元の新鮮な食材がふんだんに使われており、品数が豊富だ。
けれども人気があるので、日曜日ともなると混み合う。
この日も、我々が着いたころには満席だった。そこで受付シートに名前を記入して、しばらく順番を待つことにした。
リサさんが、
「ジョンとここで待っているから、外で遊んでいらっしゃいよ」
と言うので子供たちと外に出た。
ホテルの裏が海なので、波の音と潮風が心地よい。
鬼ごっこをすると、子供たちはハイトーンボイスの悲鳴をあげなら逃げ回る。
「きゃーっ」
超音波の様な声に、耳がやられそうだ。
それに、すばしっこく動き回る子供たちを捕まえるのは至難の業で、日ごろの運動不足を痛感した。
30分ほどして私たちの順番が来た。先ず子供たちを席に座らせ、大人が料理を取りに行く。やがてテーブルの上がいっぱいになり、さあ食べようと思ったその時だ。
何を思ったのか、翔太が子供用の椅子の上に立ち上がった。
「危ない!」
と叫ぶ間もなく、息子は椅子ごと倒れて顔面を強打した。その場の空気が凍りつく。
次の瞬間、
「うわーん」
翔太の泣き声が、響き渡る。
やれやれ、せっかくの気分が台無しだ。優雅に食事を楽しんでいる他の客にも、申し訳ない。
私は息子を抱きかかえ、泣き止ませようとした。翔太は口を怪我した様で、血を流している。
それどころか、口から血まみれの歯が2本出てきた。
前歯を折ったらしい。
私は、慌てて携帯で高校の同級生の歯科医に電話すると、
「折れた歯を冷たい牛乳に浸して、すぐに息子さんを連れて来んね」
と言われた。全く面倒な息子だ。ゆっくり飯も食えないじゃないか。
妻がホテルの人に頼んで、紙コップに牛乳を貰って来た。そこに、折れた歯を入れる。
結局、私と妻は料理を一口も食べることなく、長女と次女を義父母に任せて、息子を歯科医院に連れて行った。
同級生の星田とは、高校の入学時に出席番号が星、星田で前後になった時からの付き合いである。去年、彼は地元に戻り開業したと聞いていたが、こんな形で世話になるとは思いもしなかった。
「急な頼みで、本当にごめんな」
「うーん、子どもさんのことやけん、仕方んなかよ」
そして今日は日曜日でスタッフが休みなので、彼が一人で処置をしなければならない。
彼は泣き喚く翔太を診療台に寝かせ、暴れないように専用のネットで身体を固定する。それでも翔太は動こうとするので、私と妻は息子の足を押さえた。
星田は息子の口に局所麻酔を打ち、切れたところを縫合し、折れた歯を接着していく。
翔太は痛いのと怖いのとで、汗をびっしょりかきながら大声で泣き続ける。
こちらも汗をかきながら必死で押さえた。時折、妻が歯科用のバキュームを持たされ助手をさせられる。
星田は淡々と処置を施していたが、かなりの時間を要した。
彼の話では、乳歯と言えども抜けたままにしておくと、その後の永久歯の歯並びに影響が出るらしい。
そして折れた歯でもすぐに接着すれば、細胞がまだ生きているので元通りに繋がるそうだ。
近所に腕のいい歯医者がいて、本当に良かった。
一通りの処置が終わって、星田が言った。
「今日は麻酔で口の中が痺れとるけん、舌やほっぺたを噛まんように見てあげとってね」
「ありがとう、せっかくの休みの日にごめんな。お陰で本当に助かったよ」
「こんぐらいの子供は、顔から転ぶもんね。先週もおんなじような子が来てね。その子は前歯が歯茎に埋没して大ごとやったよ」
歯科医師の仕事も、大変なものだと思った。
彼が翔太のカルテに治療内容を記入する間、私たちは待合室で待った。
そして化膿止めと痛み止めを処方され、しばらくは毎日、患部の消毒に連れて来るようにと言われた。
歯科医院の玄関には、ガラス細工の雛人形が飾ってあった。
それを見た私は、靴を履きなが保育園の雛人形のことを思い出した。
ここでも従業員が嫁に行かないようにと、ぎりぎりまで雛人形を飾っているのだろうか。
どこもかしこも人手不足な様だ。
三月の終わりのことだった。
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