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だれの馬鹿になるか

 
こんな話を聞いたことがある。あるひとが街を歩いている。すれ違うたびに、ひとびとは変な顔をして彼を眺める。声にだして笑うひともいる。そのひとのTシャツの前面にはこう書いてあったのだ、

『ぼくはキリストの馬鹿です』 
(I am a fool of Christ.) 

足を停めて、通り過ぎてゆく彼を見つめると、そのシャツの後ろにも何か書いてある。よく目を凝らして見てみると、そこにはこうあった、

『あなたはだれの馬鹿ですか?』 
(Then who's fool are you? )  

みんなきっとだれかの馬鹿なのだ、ということを、最近わたしはずっと考えている。ひとを馬鹿にするためではなくて、わたしがキリストの馬鹿であると言いきれるようになるため。

ニュースで読んだ、子どもを失ったマリウポリの母親の嘆き、

『だれがわたしの子どもを返してくれるの?』
『どこに逃げたらいいの?』

 「キリスト」

 わたしは呟いた。目には見えない、いま一番安全な場所。すべての答え。唯一の絶対的なもの。

『わたしは福音を恥としない』とはパウロのことば。わたしを捕えようとすることばの呪いを打ち破って、わたしは書き続けようと思う。なんの反応が無くったっていい。せめて三年、石の上でも、イエスキリストについて日本語で書き続けてやろうとおもう。わたしはキリストの馬鹿だから。

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