見出し画像

Hello, Grace, it's good to see you  -『お寺の国のクリスチャン』の余話-




 「いまだってわたしに幕末の志士の覚悟があるかと問われれば、ちょっとないかもしれない。わたしの日常は、マルタとマリアみたいに、皿洗いだの片付けだの、もっと煩瑣な事柄で満ちているんです。そしてそれはそれで、なかなか心の砕かれる、大変な戦いなんですの」

 わたしの小説のなかでこう語った八枝ちゃんというひとは、自宅を教会として開放するひとに嫁いでしまった苦労人である。

 八枝ちゃんは東京の開業医の一人娘。何代も続くクリスチャン家庭で、ホームスクーリングで教育され、とくに勤めに出たこともない苦労知らずのお嬢さん。大学院を卒業したあと、信州にできた新しい教会に、通訳として貰われてきて、それからすぐそこの家主である真木さんと結婚した。

 四十才の真木さんと二十五才の八枝ちゃんとでは、あまりにも霊的な成熟度が違いすぎた。教会の家主夫人となった八枝ちゃんは、炊事や掃除や、ひとの残したゴミを拾うことだの、忘れ物の管理だの、おもてなしだの片付けだの、終わりのない奉仕の暮らしを送ることになった。

 他人に仕えることは、いまの世間で誉めさやされることではない。じぶんが、じぶんが、という時代である。八枝ちゃんも、フェミニストの従姉にその生き方を批判されたり、憐れまれたりしていた。

 八枝ちゃん自身にも、プライバシーもなく、いつもいつも他人のために働きつづけるような暮らしは、苦しかった。

 「わたしは聖霊は受けていたけれど、信仰を試されたことは、ほとんどありませんでした。わたしの信仰にはまだ生ぬるいところがあって、心のなかにあったかもしれない炎も、消えてしまっていたんです。それでも真木の妻だからって、体裁を保とうとしていて、じぶんの偽善が苦しくてたまらなかった」

 そんな生活から逃げだしたい、と思った八枝ちゃんに、その母の言ったことばが、「ひとびとから目を反らし、キリストだけを見つめなさい」だった。

 それで八枝ちゃんの背負うもの自体が変わった訳ではなかった。彼女に課せられた軛の重さは、変わりはしなかった。『わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い』(マタイ11:30) なんてほんとうだろうか、というように、八枝ちゃんは傍目から見てもいつも苦労のし通しだった。

 「でもね、いちどで済むことじゃないんです。試練はなんどもやってきて、なんどでも、意識的にじぶんの目をキリストに向けなくてはいけないの」
 
 どこかできっと八枝ちゃんも気付いたのだとおもう。キリストのくびきが負いやすく、その荷が軽いのは、キリストといっしょに背負うからだって。キリストの背負う荷を、じぶんひとりで背負おうとすれば、ただの人間は潰れてしまう。それはキリストのみこころではない。

 神さまが八枝ちゃんに背負わせた人生も、彼女ひとりで背負えるようなものではなかった。それは経済的な苦労とは無縁なかわりに、毎日毎日すこしずつ砕かれていくような茨の道、奉仕の道だった。

 『あなたがたのなかで、偉くなりたいひとは仕えるものになりなさい。キリストも仕えられるためではなく、仕えるために、じぶんの命を与えるためにやってきたのだから』(マタイ20:26,28)

 神の国というのは、不思議の国のアリスのような、逆さまの世界である。そこでいちばん偉いひとは、いちばん威張っているひとではない。だれよりも謙虚なひとが、だれよりも偉いひとである。

 子どもを育てながら、小説を本にしようとして、「自分だけの部屋」を持たないわたしは、じぶんの時間を求めてもがいていた。そしてもがきながら、じぶんの作品が、じぶんの作品が、じぶんが、じぶんが、となりかけていたときに、こういう言葉に出会った。

 「キリストの十字架を背負うとは、他者のために生きることである」

 すこしずつ、わたしにも分かってきた。キリストのために生きるとは、他人のために生きることだと。自らを他人のために費やす尊さを。そしてそこには恵みGraceがある。困難な道をゆくときに、恵みはわたしと共にいてくれる。潤滑油のように恵みは、苦しみを喜びに変え、わたしの心を力でみたしてくれる。

 ひとに仕えることに、報いがなかろうと、見過ごされようと、いま心のなかを恵みで満たされたわたしには、それが嬉しいことのように感じられる。あちらでキリストは、その何倍もの報いを用意していてくださるから。愛するひとの足跡を辿るだけのことだから。

 砕かれること、仕えること、神さまの不思議な国では、そういったことが尊ばれるのだ。そしてキリストを心に宿しているひとたちは、その困難な道をひとりでは歩まない。聖霊はわたしを離れることがないし、恵みはいつもまさにその時にやってきてくれる。

 本のなかで八枝ちゃんが、それでも戦い続けるか、と夫に問いただされたときの言葉。

 「苦しいけれど、苦しめば苦しむほど、キリストに近づいていく感覚がするんです。砕かれる前のじぶんに戻りたいとは、決して思いませんわ」

 わたしも、戻りたいとは思わない。いちどこの十字架の道を、キリストに向かって歩み始めたからには。キリストのために生きる道を。他者のために生きる道を。自らの人生をひとのために費やす道を。

 栄光から栄光へと変えられて、ついにキリストのみうでのもとに戻るまで。



↓ハロー、グレース、会えて嬉しいよ、というクリスチャン音楽

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?