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Desperately in love with Christ ー「お寺の国のクリスチャン」の余話ー

 『ぼくは最近思うんです。いつもいつも、キリストに無我夢中でいられる情熱が欲しい、って。あなたが欲しくてたまらない、っていうような情熱に、礼拝のあとや、良い賛美の間だけじゃなく、日常生活でも浮かされていたい、って』

 という台詞を、わたしの書いた本のなかに住む、無駄にハンサムな青年が語っていた。久米勇くめいさむという名の彼は、ふつうの世界で、上手く世渡りしてきたひとで、教会やキリスト教とはなんら縁のないところで生きてきたのだけれど、心の深いところで、なにか虚しくないもの、無限なもの、唯一のものを求めていた、というひとである。

 彼は英語がわかるわけでもない、ふつうの日本人で、聡いひとだけれど、教養があるわけじゃない。ただ無駄にハンサムで、そして人間が好きなので、無用な(女性関係の)トラブルにばかり巻き込まれる。世間的にいうなら、スクールカーストの上位にいたような、軽薄さでみずからを装っていたような、そんな人間だった。

 そういうひとに、聖霊のバプテスマを受けさせてみたかった。恋愛だの飲み会だの賭け事だの、この世の事柄の虚しさを、説教されずとも骨身に知っているひとに、唯一のものを、本物のキリストを与えてみたかった。

 教会生活の欺瞞だの、クリスチャンの偽善だのは、久米さんには通用しなかったことだろう。人間好きなひとだから、ひとがたくさん集まる教会は性に合うらしいけれど、でも彼をただの教会員にして、一時教会に熱心に通ったけれど、ぷつりと切れてそれでおしまい、思い返してみれば、ぼくも一時期教会に通ったことがあったなあ、天国に行かせてもらえるかしら、みたいなひとにはしたくなかった。

 ふつうの日本人の男性が、神を求めて、聖霊を受けて、キリストと恋をしながら生きていく、というのを書いてみたかった。べつに久米さんは牧師になって、それで食っていくわけでもない。信州の大手バス会社で、営業か広報をやっているただのサラリーマンである。

 そういうひとを、キリストと恋に落としてみたかった。小説のなかに出てくる他の日本人たちは、クリスチャン二世だったり、海外でキリストに出会ったひとだったり、どちらもわたしと似通った、なんだか恵まれた境遇のひとたちだったので、ふつうに日本に暮らす日本人が、それほどまでにキリストと恋に落ちることだって可能なのだ、というのを確かめてみたかったのだ。

 これは本の帯にも採用した、なぜ久米さんがキリストと生きているのかを語った台詞、

 『ぼくはね、溺れていたんです。このまま死んじゃうのかな、と思っていたときに、救いだされたんです。溺れるのだけが人生だと思っていたぼくを、キリストが舟に引き揚げて、凍えているぼくを一緒の毛布にいれて暖めてくれたんです。だからそれ以来、ぼくは彼に付いていくことに決めたんです』

 このひとは情熱的なひとだから、キリストとの恋愛も、けっして生ぬるいものにはしておかない。どっちつかずなクリスチャン二世の甘えは、久米さんとは無縁である。

 小説のなかのひとたちがキリストについて語った言葉は、書いた本人のはずのわたしをよく励ましてくれる。キリストについておなじ思いを抱いているわたしの友達は、ほとんどが外国人だから、本のなかのひとびとは、わたしにとって特別な友達になっている。

 いつか、いえ、きっとすぐにでも、こういうひとたちが日本にだって現れると信じている。キリストと恋に落ちる日本人が。たくさんではないだろう、ほんの少しだけかも、でも神さまに呼ばれたひとたちは、みんな神さまのもとにやってくる。物語を書きながら、わたしはそれを信じ、そしてちょっぴり予言するような気持ちでいる。




↓一般的な田舎の家庭に育った久米さんが、祖母の死を通じて、キリストに従うひとが、どうやってお寺の国のしきたりと渡りをつければいいのか考える、というニッチな小説。

↓この一連のお話の始まりは、このお寺の国で、面倒な旧家に生まれたのに、キリストに身を捧げてしまい、親戚や近所のひとから白眼視されるようになった、ひとりのキリストのばかから始まったのでした。彼は一般的な日本人とは言いがたい。大地主だもの。


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