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続・佐賀県の箱入り娘とバスケットボールを通じて出逢った愉快な仲間たち 





・まずはこちらの話題から


こちらのアカウントでの最初の記事に想像を遥かに超える反響をいただきとても嬉しく、とてもとても驚いている。note公式でのご紹介やスマートニュースのトップに掲載など驚くことの連続で、たまたま見つけましたとメッセージもいただいた。自身で拡散する前の段階で生活指導の厳しい先生こと高校の恩師から「note読みました」とLINEも届いた。ネットの世界は広いそして怖い。長くなったので前回の内容には入れなかった「これまでの人生に欠かせないバスケットボールを通じて出逢った人たち」を紹介したい。私は本当に運がいいと思う。彼らに出逢えたおかげでどれだけ辛い思いをしてもずっとバスケットボールを好きでいられたのだから。



・はじめましての大切さについて


何事も最初が肝心だというが、なにかを始める時、特に子供の頃の最初の体験とはその時に出逢う人、指導してくれる人の存在が大きいと思う。そういった意味では厳しくも優しいミニバス時代のコーチと出逢えたことはとても幸運だった。バスケットボールが大好きになったあの日々。毎日とても楽しかった。コーチ陣やチームメートと季節の行事も楽しんだし市の大会で2回優勝した。コーチが指導するクラブチームの練習にも中学、高校と通い続けた。学校生活がうまくいかなかった時期、夜みんなでバスケをして所属するお兄ちゃんたちに遊んでもらってなんとか日々を乗り越えた。コーチに言われた通りにシュートフォームを修正するとボールが魔法のようにリングに吸い込まれたことをはっきりと覚えている。



・竹刀を持った支配者



中学2年、3年の時の顧問の先生は剣道が専門だった。体育館にはいつもバスケットボールの参考書片手にやってきて分からないことがあれば私たちに聞いてくれたし、土日は車を出して練習試合へ連れて行ってくれた。ただ、長年生活指導の担当でもあり学校一厳しくもあった。いまでは完全にNGだが反抗的な態度を取った生徒のことは廊下を追いかけまわしていた。愛ゆえの行動だと一応みんな分かっていたことは述べておく。

2年間担任でもあったので部活動以外でもお世話になった。とある日、抱えきれないことが重なり保健室に避難したことがあった。そこに先生はブドウを持って現れ、とりあえず食べろと促した。なぜブドウがあったのだろう。あれはたしか巨峰だった。涙を流しながらもぐもぐしていると「俺はもうお前に頑張れとは言えない。学校に来たくないときは無理せず休め」と言ってくれた。これは私にとって、怪我やプライベートや思春期のあれやこれやから逃げずにいられた自身のターニングポイントにもなった出来事なのだが社会人になって数年経った際、再会した先生ご本人に伝えると覚えてないと言われた。そりゃないぜ。

竹刀を持った強面教師と箱入り娘の伝説の一戦がある。何の大会だったかは覚えていないが左膝の前十字靭帯を切った後、試合中に膝が軽く外れてしまった。心配して交代を申し出た先生に向かって私は地団駄を踏み、なぜ交代しないといけないのかと体育館に響き渡る大声で絶叫した。冷静に考えれば痛がる選手を休ませるのは当然なのだが、それだけにとどまらず私は一度ベンチに戻りはしたがすぐさま自ら交代を要求しコートに立った。母から、あれはさすがに信じられないといまだに繰り返し語られる出来事だ。


・箱入り娘vs顧問 仁義なき戦い


「1年生は横でドリブル練習をしなさい」衝撃の一言で始まった高校でのバスケライフ。ミニバス、中学と「怒られる」という経験をほとんどしてこなかった私にとって女子バスケットボール部の顧問の先生との出逢いは大きな意味を持つものになる。練習に参加させてもらえないこともあり当時、先生が言うことに対して決して首を縦に振らなかった。母からいつもその態度について叱られていたが反抗期は続いた。

前回のnoteにも記したが眉を剃るのは禁止の学校で私の眉は全剃りだった。バスケ部は先生の厳しさも相まって男女ともに真面目な人が多かったような気がする。男バスの先輩から「眉毛を細くできてすごいね。尊敬するよ。」とよく言われていた。だったら先輩も剃ればいいのにと思っていたがそれはさすがに言わずにおいた。


今思えば、リハビリを頑張りクラブチームにも通い誰よりも練習をしているという自負があったなかで試合に出してもらえないモヤモヤを抱えていた。先生の色々な考えも今なら理解できる。でも当時の私は正直なところ、怪我をした悔しさをまだ引きずって過ごしていた。そのどうしようもない気持ちを反抗することでしか表現できなかったのだと思う。(たぶん)

転機が訪れたのは2回目の前十字靭帯断裂のとき。怪我をした直後、痛みで意識朦朧としながらも誰かが崩れ落ちた身体を抱えてコートの外に運び出してくれたのが分かった。それが先生だったと気付いたのは少し後ででも自分の中で何かが変わったことをはっきりと感じた。途中で転任されてしまったがその分頑張ろうと思えたし少しでも成長した姿を見てもらおうとリハビリにも練習にも励んだ。生活するうえで大事なこと、地道に努力を重ねること、凛とした強さ。先生から学んだことは私を人として成長させてくれた。



ちなみに男子部の顧問だった先生ともよく話しよく笑いよく喧嘩した。体育の授業中に身長を聞かれたので160だと伝えると態度がでかいから170はあるように見えるな!と全員の前で笑い飛ばされ、練習試合でいいパスをしたつもりだったのにそれをミスだと指摘されビブスを脱ぎ捨て反抗するとしばらく干された。北海道への修学旅行では怪我でスキーができなかったので一緒にソリで遊んだ。その時の笑顔の写真も実家に残っている。いい思い出だ。教育実習のため母校に帰ったときは体育教官室から職員室まで毎日様子を見に(冷やかしに)来てくれた。



・心の拠り所


中学の時に通い始めた病院に研修で来られていた理学療法士の先生は、物腰柔らかで面白くてリハビリ室のお年寄りから学生までみんな先生のファンだった。しばらく会わなかった期間があったが高校で怪我をしてまた一からのリハビリが始まったときのタイミングで、今度はその病院所属となられて担当してもらえることになった。劇的なタイミングにも感激したし、人生で人は、会うべき時に、会うべき人に、会うべくして会うのだと思う。

辛いリハビリを共に過ごしてくれる存在はとてつもなく大きい。リハビリ期間、進捗に一喜一憂し先の見えないトンネルに入ったかのような時間が訪れる。暗闇に飲み込まれてしまいそうになり、ふと、糸が切れてもいいかなと思ってしまう時がある。もう諦めて楽になってしまいたいという瞬間が。けれど先生は常に私の時間を次へと、明日へと進めてくれた。施術がしばしば担当の中で最後になることがあった。帰り際、「未沙希ちゃん遅くなってごめんね」と言い待合室で待つ母のもとまで来てくれ「お母さんお待たせしてしまってごめんなさい」と声をかけてくれていた。3人だけになった玄関で先生と少し談笑したあと、真っ暗な駐車場を母と一緒に車まで歩き、いろんなことを話しながら帰宅したことをまるで昨日のことのように思い出せる。




・それでアナウンサーになれると思ってるんか?


何が起こっても対応できるよう常に選択肢をいくつか用意しその時々で最善の道を提案し全力で実行すること。ボスの元でマネージャーをやる、ということはそれを24時間意識して過ごすことだった。ボスとは大学の男子部のヘッドコーチのこと。謝って済むことはミスではない。首から携帯電話を下げすぐに出られるような体制を常日頃から整えていた。ただこれはスタッフ陣、マネージャー陣の団結無くしては語ることのできない時間で、選手のみんなからの励ましや、保護者さんも含め外部から支えてくれた沢山の人たちのあたたかさがあったからこそやり遂げられた。

「将来なにになりたいんや?」食事会で聞かれた時に「スポーツキャスターになりたいです」と答えたが、バスケットボール解説の第一人者ともいえるボスにそう言うのは結構な勇気が必要だった。でもその一言によりボスが喋り手への一歩を踏み出せるよう背中を押してくれた。今は私の実況にぶーぶー言いながらも的確なアドバイスをくれる。たまに食事の席で、喋りの後継者やなと笑ってくれるのが嬉しい。先日とある現場の帰り道に「いつか一緒に放送席に座れることを楽しみにしている」と言ってくれた。たぶんボスは何の気なしに言ったのだと思うし覚えていないとも思うけれど私は一人残されたゆりかもめの駅のホームで少しだけ泣いた。大学生活でのあの思い出したくもないくらいの厳しさは、プロを目指す選手はしっかり上でやっていけるように、そして誰もが社会に出てひとりでもしっかり生きていけるようにとの想いがあってこそだったと、今の私は知っている。



〜あの日あの時あの場所で〜


本当にありがたいことに、ここまでに出てきたコーチや先生方とは今でも交流がありよく連絡も取る。他にも、共に過ごしたチームメートや友人先輩後輩、夜バスのお兄ちゃんたち、コーチ陣や先生方などバスケットボールを通じて本当に沢山の人たちに出逢えたことこそが財産で、その恩返しのためにも諦めずに頑張りたいと思うようになった。どのエピソードにも必ず出てくるのが母でいつどんな時も笑顔で支えてくれたことに心から感謝している。

そして、最初のnoteは書くかにまず悩み公開するかに悩み自身のSNSで拡散するかも相当悩んだ。それでも、思わぬ反響とあたたかいメッセージをいただいて、文字にして残して良かったと思えたし明日への活力をいただいた。人は人に生かされているのだ。

メディアの立場で、ひとりの喋り手として、私には何ができるだろうか。

バスケットボールの楽しさを教えてくれたミニバスのコーチのように。無理して学校に来なくていいと言ってくれた中学の先生のように。本気で向き合ってくれた高校の先生のように。いつも支えてくれたリハビリの先生のように。将来への道標を作ってくれた大学のボスのように。

誰かの光になれたら、なんておこがましいことは言わない。それでも、強い人でいたい。誰かが涙を流す前に、その肩をそっと抱けるような人でありたいと願っている。





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