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佐賀県で18年間過ごした箱入り娘が日本で唯一の女性のバスケットボール実況者になるまで







・運命の出逢い


佐賀県唐津市の漁師町、ザ・昭和の九州男児の父と思いやりあふれる愛情深い母のもとに生まれ、絵に描いたような箱入り娘として育てられた。高校を卒業するまで門限は日没、自転車に乗るのは禁止、外泊なんて言語道断。そんな私が人生で初めて両親の許可を得ずに決めたことが近所のミニバスケットボールチームに入ることだった。小学校4年生、友人の誘いで体育館へ見学に行きその場で勝手に入部を決めてしまった。一旦家に持ち帰り相談したところで渋い答えが帰ってくることは幼いながらに分かっていて、その数年前に2つ上の姉がミニバスをやってみたいと相談し危ないからダメだと言われている場面を物陰からしれーっと見ていた。かなり厳しく育てられながらも次女特有のクレバーさと地方あるあるのつっぱり気質を兼ね備えていた私はその場のノリで入部を決めチームの一員となった。帰宅し夕飯の準備をする母の背中に恐る恐る報告したはいいものの心配するがゆえのお叱りを受けたことを今でも覚えている。そしてその箱入り娘はまだ知る由もない。そのノリが自分の人生を決めてしまうことを。


小学6年で身長が158センチあった私は大型ポイントガードとして期待されていたが中学に上がってから2センチしか伸びなかった。それでも毎日はバスケットボール一色で寝ても覚めてもボールに恋焦がれ部屋にはアレン・アイバーソンのポスターと日本人初のNBA選手!と各所で取り上げられていた田臥勇太選手が掲載された新聞の切り抜きが所狭しと並んだ。日韓W杯でハマりにハマったベッカム様の切り抜きも残ったままだった。(オリバー・カーンも好きだった)

一番の被害を被ったのは母で、練習の送迎、試合の応援、練習着の買い物、通院、保護者会の役割、食事会の幹事まですべてをサポートしてくれた。中学の時は部活動以外に週に2日ミニバスのコーチが指導する高校生大学生のお兄さんたちのクラブチームの練習にも参加していて、さらに言うと他の2日は塾、1日は書道教室、土日は部活動の練習試合という毎日を過ごしていたのだけれど、先に述べたように自転車に乗るのは危ないという理由で禁止だったのでその先々には必ず母の運転で向かった。母は家族や私や自分の両親や親戚の誰々や近所のおばちゃんたちやととにかく人のために動き、自らも仕事をしながらフル回転の毎日だった。これまでもこれからも私のいちばんの理解者で、今では私が実況担当する試合を深夜だろうと1日3試合あろうと必ずリアルタイムで観てくれていて「みーちゃん、今日の実況も最高だったよ♡」と恋人かと思うような激甘LINEをくれる。しかもハーフタイムと試合後の2回。



・15の夜ならぬ14のお昼、体育館にて


挫折、というものは人生で必ず味わうものではないと今でこそ思うが私がその感情を抱くのは早かった。中学2年、選抜チームに選ばれ県外の高校進学も視野に入れている今思えば一番キラキラした時期にそれは起こる。練習試合中、左膝がガクンと外れて力が抜けたかと思うと身体はそのままコートに崩れ落ちた。周囲の先生たちは慌てふためき私は医務室に運ばれた。一段落するとどこかの学校の保健室の先生に、スクワットをしなさいと言われた。この状況で・・・?頭は回らず全身の力が入らない中、冷や汗を流しながらした3度のスクワット。


病院に行きレントゲンを撮ると「靭帯は大丈夫です、おそらく半月板の損傷でしょう」とのこと。心配症の母が念の為MRIを撮りたいと言いその数日後に県内の大きな病院へ行った。後日結果を聞きに行くと「半月板は大丈夫です、ですが前十字靭帯を断裂しています」と宣告された。いやいやこの前言われたことと真逆やんけ〜と思いながらも手術の話やリハビリの話を聞いているうちに私の目からは涙が溢れた。できることが増え選抜メンバーにも選ばれこれから明るい人生が待っているものとばかり思っていた。そしてなにより愛してやまないバスケットボールができないことが悲しすぎた。

膝はパンパンに腫れ上がっていて「これを抜いた色が赤だったら靭帯、色がなかったら半月板」と主治医は言い、もう靭帯断裂の診断は出ていたが奇跡は起きないかと母と私は固唾を飲んで見守った。膝の水を抜くのは気絶するほど痛い。注射器に吸い上げられるその液体が真っ赤に染まっているのを見た瞬間静かに首を横に振った彼の表情は、私を絶望の淵に立たせた。


そこで箱入り娘は決断を迫られることになる。前十字靭帯断裂の復帰は当時8ヶ月から10ヶ月かかると言われていた。怪我をしたのは中学2年の後半。今手術をすると中学3年、夏の最後の大会に間に合わない。今手術をするのか引退まで続けるのか。結論、そのまま手術をせずテーピングを巻き器具をはめた状態で続けることにした。前十字靭帯を断裂した状態でプレーを続けることはどういうことかというと、膝を支えている軸がないまま動く、それゆえに膝が常にガックンガックンするので、強制的にテーピングで固定をし軸がぶれないようにする。ただバスケットボールというスポーツは縦にも横にも動くし持久力も瞬発力も必要、さらに人との接触が多いので予期せぬ身体のぶつかり合いやジャンプ後の着地の衝撃に、支えを失った膝は耐えられない。だから基本的に骨と骨がぶつかり合う痛みに耐えながら走り回ることになる。大きな衝撃だと膝の噛み合わせが外れるのでガクンと抜けたかと思うと強烈な痛みが襲い気を失いそうになる。そして血が溜まり膨れ上がるので病院でその血を抜き痛み止めを注射するまでがワンセット。膝の周囲や足の筋肉が頼みの綱なので日々筋トレは欠かせない。人生であれだけハムストリングスを意識したことはない。


県外の高校進学は諦めることになった。受験も終えていたのだけれど、高校バスケの集大成ともいえるウインターカップで優勝経験もある部にすでに怪我を負った状態で入るのはどうかという意見や、全寮制のため高校から家を出したくないという両親の考えや、とにかく色々なことがあって地元の学校に進んだ。中学3年、部活を引退したあとに靭帯の再建と切れっぱなしで続けた代償である半月板の損傷、割れた軟骨の手術を終えて(人生で1番痛かった!)来る日も来る日もリハビリに励んだ。全てはコートに戻るため。こればかりは本当に辛かった。辛すぎた。それでもへこたれずにいられたのはなぜだろうと思い返すけれど答えは一つ、バスケットボールが大好きだったからだ。




・試練は続くよどこまでも



進学した地元の高校は伝統ある由緒正しき学校で、市では一番の進学校だった。特に女子バスケットボール部の顧問の先生は生活指導も兼任しておりとにかく厳しかった。私は数学が苦手で放課後の追試に参加しなければいけないことが多々あったのだが、追試があるということは部活に遅刻するということ。それだけは避けねばならんと数学の先生に朝早く学校に来るので授業前に受けさせてほしいと直訴しに通った。泣き落としだ。だったら追試にならないように勉強すれば良かったのではないかという意見はここでは控えていただきたい。

部活の先輩方のスカートは膝丈、髪型はショートカット、生まれながらの自然の眉毛。校則自体眉を剃るのは禁止だったがほぼ全剃りの細いアーチがチャームポイントだった私、16歳。それだけは譲れなかった。顧問の先生と衝突しながらも自我を貫いたことが功を奏したのか?いまでも先生とは仲良しだ。

全剃り眉はさておき、部活動に真面目に取り組み夜のクラブチームの練習にも参加し市外のリハビリの病院には往復3時間かけ母が送迎してくれていたので週に何度かトレーニングに励みとにかくバスケ漬けの高校生活。2年生になりやっと本来の感覚が戻ってきたと感じるようになっていた。膝への恐怖心も克服できそうな状況で毎日を謳歌していた頃、再び試練が訪れる。


その日も練習試合だった。マッチアップしていた選手がドライブに飛び込んだので私はシュートチェックのために飛んだ。空中で身体がぶつかる。体制を崩しおそらく無意識に左足をかばい右足で着地した。その刹那、私は立ち上がることができなかった。病院へ行きMRIをとり診断を待ったが結果は左膝とおなじ。どうして今なのか、だったら無理をしてでも県外の高校に進んでおけばよかった、また一からあの地獄のような手術とリハビリを繰り返すのか、とさまざまなQ&Aが脳内を飛び交う苦悩の時間だった。でも少しばかり大人になっていた私、17歳。自分の心に問いかけ続けもう一度同じ決断をする。高校3年の最後の大会まで切れっぱなしでプレーを続けリハビリに励み溜まる血を抜き痛み止めを注入し、引退して大学が決まったあとに手術をおこなった。


手術、リハビリの先生方にも大変お世話になった。手術の回数を重ねるごとに手続きの説明を省かれたり入院部屋まで好きに行っといてと言われたりリハビリ室では高校2年の時点でベテランというニックネームで呼ばれたりしたが、いつも寄り添ってくれた皆さんのおかげで心も元気に続けられたのだと思う。とくに理学療法士の先生といる時間が私のリラックスできるひとときでもあった。試合の時は時間外にも関わらず朝早くにテーピングを巻いてくれた。高校最後の大会の日は病院からバイクを飛ばして市外の体育館まで来てくれた。試合に間に合わなくてごめんねという先生に思わず抱きつき涙して私の高校バスケは幕を閉じた。




・花の都大東京


物心ついたときから東京に行くと決めていた。これに関しては理由などない。ただ漠然と東京に行くのだと思っていた。散々述べているように鬼の箱入り娘だった私は父から猛反対を受けることになる。ザ・昭和の九州男児は、大学は家から通えるところじゃないとダメだと言う。私にできることといえば絶対に聞こえないくらいの声の大きさで、だったら飛行機で毎日通う、と囁くくらいだった。そこに現れたのがみんなの太陽、私の女神、母である。母は私が高校進学を諦めたことを気にかけてくれていて大学は好きなところに行って欲しいと陰で九州男児を説得してくれたようだった。進路希望調査表の提出期限の前日、机の上には父のサイン入りのものが置かれていた。


そしてまたさらに紆余曲折あり、花の都大東京へいざゆかん。体育会女子バスケットボール部に入部した。大学が決まって靭帯再建の手術をしたので時期的にもリハビリをしながらマネージャーのようなこともやりつつ選手復帰を目指すことになった。大学2年。手術から1年ほど経つと靭帯の代わりに繋いだ腱と腱を固定しているボルトによって痛みを伴うことがある。それを抜く手術を抜釘手術というのだけれど私はそれをするために帰省した。いよいよ本格的に選手復帰を目指す、そう信じて。だが手術を終えたあとに主治医から言われたことを要約すると、もともと身体の腱が緩いのでいくら再建したとてまた両膝の靭帯が切れる可能性がある、もしまだプレーを続けたいのならば両膝手術をやり直す必要がある、強行突破すると将来日常生活に支障をきたす恐れがある、言うなれば「終了宣告」当時19歳、ユニフォームを脱ぐ決断をした。



しかし運命はまた動き出す。



・俺んとここないか?


終了宣告をされボールを見ることさえできなくなっていた私は、せっかく東京に出してもらったのだし世界を広げよう、そう心に決めて一度バスケットボールから離れるべく退部することに決めた。そんな折、一本の電話がまた私の人生に波乱を巻き起こす。母校の男子部は関東一部のいわば強豪チームだった。その電話は男子部の監督さんからで「マネージャーをやってほしい」との依頼だった。悩んだ。かなり悩んだ。でもこのタイミングでの依頼とはバスケを諦めるなということなのか?もう一度本気で向き合う機会を与えてくれたのか?そう思うことにした。当時の男子部は練習がきつすぎることも有名でマネージャーがいなくなったゆえ辞めないような人材を探していたところ船岡が女子部を退部するという噂を聞き召喚されたというわけだ。たしかに自分で言うのもなんだが両膝前十字靭帯を断裂してもカムバックする根性は持ち合わせていたので、面談を重ね、主務兼マネージャー船岡が爆誕した。


この決断も人生においてかなり重要な局面だったといえる。ヘッドコーチの厳しさに揉まれ3日に1度は泣いていたので精神面もゴリゴリに鍛えられた。当時の男子部はトップチームとベースチーム、いわばAチームとBチームに分かれていたのだがそこで私は衝撃を受けることになる。各学校から選ばれし全国レベルの選手たち、月バスに載っている面々の集合体、その選手のなかからほんの一握りしか試合に出られない、それどころではなくトップチームの練習にも参加できない。その事実を目の当たりにして私には新しい目標ができる。『試合結果だけではないスポーツの魅力を伝えたい』『選手たちの努力にもスポットライトを当てたい』国語の先生を目指し教員免許も取得したがその進路、将来の職業を変更する事態になった。




・流れる季節の真ん中で


スポーツキャスターを目指した私は富山県でキャリアをスタートさせた。新卒ながら週5日の生放送、サッカーバスケの取材にインタビューと目まぐるしい日々を1年10ヶ月過ごし、Bリーグ誕生の年に東京に戻ってくる。そして毎度ながらまたしても事件が起こる。暗黒期のはじまりだ。これに関してはここでは述べない。だがあまりに悔しすぎるのでいつかは文章にしたいと思っている。当時学生時代から続けていたSNSのアカウントをすべて削除しまずは自分の心の回復に努めた。

バスケットボールに携わることができない毎日、それでも自分を奮い立たせ勉強を続け試合に足を運んでいた。その年は女子バスケWリーグ20周年の記念の年、男子バスケBリーグの配信が始まっていたバスケットLIVEさんからWリーグの配信がはじまるので実況をやってみないかというお話だった。当時、日本に女性のバスケットボール実況者はおらず前例もない。とにかくやるしかないと腹を括りそこから勉強漬けの日々が始まった。開幕まで2ヶ月。毎日毎日毎日毎日、準備をした。試合を観てデータを作り勉強し練習し試合を観てデータを作り勉強し練習した。初実況1週間前、緊張のしすぎで体調を崩した。本来、緊張しいの豆腐メンタルなのだ。なんとか初めての実況、2試合終わり、3試合、、、果てのない旅が始まった瞬間だった。




・唯一無二を目指して


あとから聞いたところによると、実況を打診すべく他にも候補が上がっていたらしいのだが選んでいただいた理由に「明治大学のマネージャー経験者だったらルールは完璧だろう」というのもひとつあったとのこと。本当に人生は何が起こるか分からない。

実況をはじめてから、とにかく目の前の1試合1試合に全力で取り組むことを大切にしてきた。選手、マネージャーを経験しているからこそ思うのは「1試合の重み」この会場で、このメンバーで、この試合が行われることはもう二度とない。会場に来ている人、配信を観ている人、もしかしたらこれが最初で最後の人がいるかもしれない。それだけの覚悟を持って実況に臨んでいる。それに、コートに立つ選手やチームの皆さんのことを思うと生半可な気持ちで放送席に座ることはできない。

Wリーグから始まった実況はいつしか日本代表へ。男子の実況へ。大学バスケインカレへ、高校バスケウインターカップへ、U15の大会へ。さまざまな現場に呼んでいただけるようになり心から感謝している。あるとき、現場の担当の方から1年に何試合くらい実況しているのかと聞かれ数えたところ、2022年10月から2023年の9月までの間で82試合だったのだがこの半分でも多いと言うから驚いた。私の場合Wリーグや学生さんの大会で1日2試合実況することも多いので自ずと数は増えるのかもしれない。自分の経験とはいつもそばで支えてくれる、心強い味方だ。実況席に座らせていただける感謝の想いとバスケットボールへの愛を胸に刻んで言葉をのせてゆく。


女性だから、という理由で呼んでいただくこともあると思う。でも私の今の目標は、やるからにはトップを目指して日本で唯一の実況者になることだ。その定義付けはかなり難しい。数なのかうまさなのか何なのか。ただ、ここまで続けてきて「完璧はない」のだと痛感している。実況や練習を重ねれば重ねるほどできない部分や課題が見えてくる。準備をすればするほど足りない気がしてくる。これは実況、放送席に座る上での怖さだと思っている。キリがない。だから結局のところ努力をこれからも積み重ねるしかないのだが、言えることはひとつ『唯一無二を目指して』ひたすら前だけを見て走り続けたい、そう思っている。



・私は本物になりたい



ここまで読んでいただいてありがとうございます。ちょっと振り返ろうかなと思って書き始めたものが超大作でもはじまるのかというボリュームになって自分でも驚いています。前十字靭帯断裂の描写が長くなってしまったけれど、この怪我に苦しんだ選手は本当に沢山いるので、ひとりじゃないよ、という気持ちも込めて。


読んでいただいた方には分かるように私には特別なものはなにひとつなくて、コネもなければ有名な選手だったわけでもない。ただ、自分の選択を自分でしてきたということが人生をつくってきた。「決める」ということは本当に怖い。なぜなら責任を伴うから。誰かのせいにしたい、環境のせいにしたい、それを振り切り自分で決断してこそ人生は自らの手で切り拓いてゆける。いままで生きてきたなかで大事だと思うことは沢山あるけれど「決める」「続ける」この2つは自信を持って今の自分を形作ってきたと言える。あのときリハビリがしんどいとやめていたら?もうバスケを観るのは辛いと男子部に入っていなかったら?前例がないからと実況に挑戦していなかったら?考えるだけで恐ろしい。まずは自分で決めること、そしてその決意を無駄にしないようひたすらまっすぐに進んでゆくこと。

ここでは言えないようなことも山ほどあったし、悔しくて泣き叫びたくなったときも理不尽さに地団駄を踏みたくなった時も数えきれないほどあった。そういうときは心に問いかけてきた。大切なのは外側ではなく内側。その事態が起きた時に何を考えるかどう動くか、そこに人間としての真価が問われるのだと。比べるのは人ではなく過去の自分だ。

バスケットボールと恋に落ちた10歳のあの日。眉毛全剃り時代や暗黒期などさまざまな経験を経ていま私は心から愛するバスケットボールに携わることができている。いつか携わることができなくなるかもしれない。それは誰にも、私にも分からないけれどだからこそ今この瞬間に全力で向き合うことが大切なのだといつも思っている。私は努力がすべて実るとは正直思わない。もし私の努力がすべて実っているならば決して19歳でユニフォームを脱ぐことはなかったでしょう。それでも諦めずに続けることで見えるものは必ずあると信じてここまできました。



乗り越えられない試練を神は与えないという。次に届くバスケットボールの神様からの挑戦状を私は心待ちにしている。







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