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ルイ ヴィトンで乾杯を 【前編】

月 日

 とあるメゾンの内覧会に誘われた。
 二七歳の僕は、一体どんな格好をして行けば良いのか、頭を抱えた。
 僕にあるのは何シーズンも着古した〝古着〟か、肉体労働で酷使したワーキングウェアぐらい。スーツも考えたが、一組しか持っていなかった。大学に入った時に買ってもらったリクルートスーツ。試験監督や株主総会、催事運営などの屋内労働や幾度かの面接を経て…今やお尻がテカったあのパンツにキレイめなスニーカーでも合わせて…いや、ナシナシ。けれども「今度のパーティ何着て行けばいいと思う?」とかって同い年の男に聞くのも情けない。
 …意地が邪魔して思って何日かはばかったが、しびれを切らして誘ってくれたタケシに訊いた。「いつも通りの格好で!気張ってない方がいいでしょ!」まじ?フォーマルによりすぎず、カジュアルやけどきれいめ?皆そんな感じなんやったら気は楽やナ!「それ!皆違う方がオモロイやん!」なんてLINEで交わした。カジュアルで集まれば当然何人か来る全員、違う格好になる。そんな皆で一緒にいれば、堂々としていられるさ!って訳だ。
 最後の週末、やはり焦りに急かされ、天王寺のファッションビルMIO十二階催し会場でやってた某ブランドのファミリーセールに足を運んだ。そこで、紫色のルーズフィット・コーデュロイのカジュアル・セットアップと、PORTERのネオンオレンジの不織布サコッシュなど計四点を引き取るように買って持って帰った。全部定価の半額、史上最高にお得な買い物だった。
 その水曜の朝、例によってポマードでオールバックにし、THE FABRICのカバーオールの上に、おニューなセットアップを合わせた。荷物はサコッシュに収まる量、文庫本と手帳とLAMYのペンと4711の香水瓶。イタリア製・ブランド不明の細いシルバーのチェーン・ブレスレットを右手首に、左にはTIMEXの米軍兵用腕時計を、首にネイビーのウールマフラーを巻き、最後に玄関で、ガールフレンドの明里がクリスマスにプレゼントしてくれた星部分がリフレクター仕様で足元に☆四つきらめくバイオレット・スエードのONE STARを履き、地下鉄に飛び乗って職場に出た。

 お昼にタケシが、主催側からの案内を転送してくれた。その末尾には「いつもより少しドレッシーかつモードな装いでお越しいただければ幸いです!」とあった。ドレッシーめなカジュアルやけどええかな、と返すとすぐ「それ完璧のやつや〜ん!」と返ってきた。が、会社がある雑居ビルの喫煙室で自分の服を見おろして、
(これ多分全然いけてないやん)と、ひとりで恥ずかしくなった。

 仕事終わりメトロに飛び乗り、心斎橋で降りた。大阪市営地下鉄が民営化され、大丸本館が建て替えられて以来、久々の心斎橋駅だ。きらびやかに改装された改札口地下道に改装される前の景色を思い重ね、数々の色褪せた記憶を一瞬ですべて見た気になって、新しい時代なんやと思わされた。方角に戸惑いつつがむしゃらに進むと、一旦降りて進んで、また登って、の地下通路。そうそう電車でアメ村来る時ここ何回も通ったな、この先、最後階段をぐるりぐるり登って女子のビル、OPAの一階。
 御堂筋を南下し、適当な位置で東側へ渡った。歩きながらサコッシュから4711の瓶を取り出し、右手首に二滴垂らして両手首をすり合わせ、首の根元にもこすりつけた。早歩きしつつ腕時計を見ると、午後六時四十七分。

 大きな船のような帆をファサードに模した斬新な建造物の下、人だかりが見えてきた。華麗な衣服を身に纏った人の行列−着物、ドレス、スーツ、タキシード…。黒服が着物の女性をワゴン車にエスコートする横を切って、僕はポケットからバキバキに画面の割れたiPhone SEを取り出し、歩きながらタケシの番号を鳴らした。
〝まいどまいど!〟と電話口のペインター。
「もしもし今着いたんやけど」
〝お〜!そうかそうか、俺らまだ味穂でおんねやし。やけどもう出よ思てんやし〟
「わかったほなそっち行くわ、そこおって」と電話を切ってさっき東へ渡った御堂筋をまた西側、アメ村の方に戻った。
 ミッ寺の十字路は味穂の前、ミンティアでも買うとこか、とファミマに入った。レジに並んで勘定を待っていると、馴染みのある顔と知らない顔の二人組が見えた。
「おー毎度!」自分の表情がパッとあかるくなるのがわかる。
「まいどまいど!やーまん!」とタケシはサングラスを取って額にかけ直した。
黒のカットソーの上に羽織った深緑のウール・ブルゾン、下はグレーのテーパード・パンツ。足元は、磨かれてひかる黒い革靴。
 その横にも若い男一人。ハンチング帽を被った下、耳に銀の丸ピアス、アッシュグレーのスウェットの上にオリーブのダウンベストを挟んで、黄黒のネルジャケットを羽織っている。黒のスラックスの足元は、薄汚れた黒のERA。洒落た二人!
「こっちはミッツ。俺らの五個ぐらい下やねん」とタケシが言った。
「ええーそうなんや若っ!」
「はじめまして、セトミツタクヤです」
「こっちはしばけん」とタケシ。
「初めまして。タケウチケンタです」と僕は言った。
「しばけんは、文章書いてんやし」タケシが付け加えた。
「全然まだ世に出せてないんやけどね」
「や〜ええ文章書いてくれんやしい!ミッツは、映像作ってんやし」
「そうなん!主に・・・どこで?!」
「大阪と東京行き来してるっす」
「マジで!その歳で!?どっか何かそういう学校出て?」
「や、独学なんです!」
「えぇ〜、すごいなぁ」
「そんなん言うたら俺かて独学やし、しばけんもちゃん?」とタケシ。
「せやけど」
「…しばけん?」タクヤが目を丸くした。
「それな高校の時呼ばれてたあだ名やねん。高校出てから出会う人に〈しばけん〉って呼ばれんのそろそろいやでさ。今は自分のことそうゆうて紹介せえへんねん」
「そうなんすか!ほな、ケンタくん」
「そうか〜ほな俺もこれからケンタって呼ぶわ〜」僕らは目的地に向かって歩き出した。
 御堂筋を再び東へ渡っている時タケシが、「今日は自分がイチバンやな、俺の中では」と言った。「あほかンな訳あるか。あと二人まだや」と答えたが僕はふっとタケシと真逆の方を向いてにんまりを嚙みころし、前に向き直って真顔で信号を渡りきった。
 さっきの行列の前に戻ってきて数十秒ほどすると、ジャケット&スラックスの上にトレンチコートを羽織ったショート・パーマのテツロウが現れた。細い体躯に淡いブルーのセットアップがよく似合っている。足元はとがった茶色の革靴にくるぶしの靴下。COOL!
「おっす」
「おう」とテツロウ。
「一旦家帰ったん?」と僕は訊いた。テツロウの部屋は東梅田、職場のすぐ近くだった。
「おん」とテツロウ。彼は僕の服装を一目見て
「帰ってないん?その格好で会社行ったん?」
「せやねん、中はオフィスカジュアル(と自分では思ってる)。一応」
ほどなくして難波の方から、賢そうなフレームの眼鏡をかけた見覚えのある顔が見えた。サダちゃん。タケシと一緒に働く彼は BROOKLIN RORSTING CAMPANY KISHIWADAの店長。僕とタケシとテツロウの、年はひとつした。僕は会ってこれで二度目か三度目か。白のカットソーの上に紺色のカバーオール、下は黒のテーパードパンツ。足元の黒い革靴を横断歩道の前でぴたりと揃えてピンと背筋、姿勢が良くて、格好いい!
 手前の信号を彼が渡って来て、五人が揃った。
 ペインター、フィルマー、サラリーマン、バリスタ、そしてライター。
 タケシが、彼をそこに招待した〈インフルエンサーのアシスタント〉の女性を見つけ、タケシとその子とタクヤが何やら楽しそうに話した後「ぼちぼち入ろか〜」と、並んでいた数人の後ろに続いた。
 入り口に立つ黒いスーツの女性に〈LOUIS VUITTON〉と発泡印刷が施された青い招待リボンを手首に巻かれ、ルイ・ヴィトン メゾン 大阪 御堂筋の中に、男まへ五人組が、足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」と、十数杯のシャンパングラスを載せたトレイを掌にもったボーイが、ほほえみながら「どうぞ」と祝杯を促してくれた。
「ありがとうございま〜す」「おめでとうございまーす」と皆一杯手に取り、
「乾杯!」「ぇ〜い乾杯!」「ぃえ〜いcheers!」「乾杯っす〜!」「カンパーイ!」

こつん、と各々グラスを当てあった。一口飲み、辺りをふぁっと、さまよってみる。
 中二階がすぐそこ上に見える、開放感たっぷりの吹き抜けの一階、ウィメンズのフロア。フレグランス、ウォッチ、重厚なモノグラムのショルダー・ポシェットやハンドバッグなどのレザーアイテムの数々には、触れることを恐縮してはばからせる無言の迫力があった。そこで、触れずにあらゆる角度から目で舐め回すように眺めてみるが、どれにもどこにも価格表示がない。今日何かを買いに来たわけでもないので「これは一体ナンボかなぁ」なんて想像力も働かず、わかったところで来月、来年、再来年と手を出す訳も絶対なさそ、と、瞬く間に僕は見るところに困った。誰かが階段を上がったのを横目に見て、さりげなくゆらゆら流れに続いた。
中二階。何人か先客とボーイがゆらゆら漂っていて、やはり立ち位置に困った。
「見てあの子ら、皆ヴィトン持ってる」テツロウがつぶやき、シャンパンを口にした。
 彼の視線の先を見た。
 すぐそばの茶色い皮張りの台を使って若い男女が四、五人身を寄せ合ってきめ顔でかたまり、そのうちの誰かが、手にあまる大きさのiPhoneを姿見に向けて写真を撮っていた。自分たちより年下っぽい顔ぶれのどの子を見ても皆、揃いに揃ってモノグラムのポシェットを肩からさげていたり、ハンドバックやセカンドバッグを腕に抱えている。心斎橋、道頓堀、宗右衛門、アメ村、堀江、見る限りこの街の子でもなさそうだ。立命館、同志社、関西学院…有名大学の名も頭に浮かんだ。実家が莫大に裕福な私立の大学生が何人か集うと、こういうふうになるのかな、とかって勝手な予想をした。

 (触れるのがおそれ多いとなると、あまり長くも見続けていられない)といったふうは、何となく他の皆も同じようで、きょろきょろしながら先を歩む誰かにさりげなく続いて、きらめく階段をまた登った。三階に辿り着く。が、ウィメンズのプレタポルテ・ラインを男五人がうろうろ見るのもなんや、「ここは俺ら見るとこちゃうな」なんて誰かがつぶやきフロアを後にして、またぐるり階段を上った。そして四階、メンズフロア。
 壁際を含む数々の木製のキャビネットや什器に、シューズ、サングラス、腕時計、プレタポルテがディスプレイされていた。いたるところにやさしい色合いの木のベンチや、革張りのソファがある。そのクッションや荷物台など、所々に鮮やかで深みのあるコバルトブルーのものが配置され、そこに水があるように見えた。
だが僕らも、他の客も、誰一人そこには座らなかった。ただただ、漂っていた。
フロア奥のサロン・ルームに、波を思わせる大きなアートピースがうかがえた。フォーマルのラインがあるっぽい。いつもフォーマル・スペースには近づくことをはばかってしまう。自分には用がないと思い込んでいるのだ。男なら自分で用を作りだすべきだ。
 僕は手に持つシャンパンを飲み干し、近くにいたボーイにグラスを返した。
 タクヤが「トイレ行きたいっす」と言いだし「トイレこの階より上にあるらしいす」とどこかから聞きつけ、同じように上に行こうとフロアにあるエレベーターの前に集ってきた人たちの後ろに、僕らも続いた。

 扉が開き、華麗な人たちに続いて最後にタケシ・テツロウ・タクヤが乗るとエレベーターは満員になり、閉まる扉を見届けてサダちゃんと僕は残った。
「なんかおすすめの本ありますか?」と突然横から、サダちゃん。
「せ、せやなあ…本も人やからなあ。ホンマ人それぞれ、仲良くなる友達(作家)って全然ちゃうからな…」なんて一瞬考え、(どんなジャンル読むん?)と言おうとした隙、彼は「いや最近ね僕、本読むようになったんですよ。今まで一切本なんか読んだことなかったんですけどね、満員電車の中で何人も連なってうつむいて画面見てる人ら見たらちょっと信じられなくて、読むようになったんです」と噛まずにべしゃりきった。
「ええ!いいやん!何読むん?」
「田中角栄です」困った。
「え。ええ!田中角栄は、読んだことないわ…。シブいなぁ!面白い?」
「面白いです!また読んでみてください!ほんでおすすめの本あったら紹介してください!」彼はにっこりほほえんだ。
「わかった考えてみる!」そしてエレベーターが開いた。
乗りこむとボーイに「五階ですか?七階ですか?」と問われ、先に上がった三人が何階で降りたのかは知らなかったが、多分そうだろうと思い「五階で」と答えた。

 扉が開くと、南国の島に瞬間移動してきたかのようだった。そんなパノラマの中に、タケシとテツロウの背中が見えた。そこは秘密のサロンスペースだった。
いくつか広げられた絨毯は白い砂浜のよう。円形や角形のモノグラム・ハードトランクの上に香水瓶や花瓶が添えられ、それらのそばに、アイアンの柱に吊り下がったブランコ型のベンチや、天井から吊り下がった網目状卵形のゆりかごがある。木の皮を重ねて編まれたラグジュアリーな紺色のハンモックにはモノグラムのブランケットがささやかに垂れて、そしてそれらの後ろには、人の背より高い観葉植物がいくつも並んでいた。
 細い葉が何本も連なったやつ、長い茎の先に巨大な葉っぱ一枚のバターナイフを立てたようなやつ、ゴムの木、一本線の茎の先に、細長く鋭った葉が何本も全角度に広がったヤシの木のようなやつ。
「旅行鞄をすべてルイ・ヴィトンにされてヴァカンスにお出かけなされば、こんな感じになります」そう言われたかのようだった。中でも、跳び箱のごとく下から均等に小さくなるように積まれた九段のトランク・ケースは、表面の格式高いモノグラム・レザーと、縁をしっかりと補強する金色の枠と錠前と釘が眩しくきらめき、そこにあればどんな生き物でもすべて目線が吸い寄せられるのではないかと思わせるほど、人が創り出した物として強烈に高級な存在感を放っていた。
 高い天井からおりている生成り色をしたオーロラみたいな幕が、奥の空間へ気を誘うように、うねって続いている。よく見るとそれは、一本一本の絹糸からなるブラインドだった。何本もの細い縦の切れ目が作るそのさきへ目を凝らすと、ロウでゆったりとした形のソファがテーブルを挟んだ席がいくつか、まぼろしのようにうかがえた。
 タケシとテツロウとサダちゃんは次の空間で、ふざけあいながら互いの写真やディスプレイを撮っていた。
 僕もそっちへ進み、ふらり巡ってみる。
 奇抜な形の黄色い脚組にぶ厚いガラス板を置いたテーブル。それを囲む、六脚のイエローレザー・チェア。モノグラム・ボックスのそばに、ウイスキーグラスと小瓶と、アイスペール。シャンパングラスとワイン瓶と、ワインクーラー。黄金色のクロコダイル革のハンドバッグ。開けて置かれた内側が全面うすピンク調のモノグラム・コスメティック・ハードトランクと、全面ロイヤルレッドのジュエリー・ボックス。それらの引き出し一つ一つに縫い付けられた、取手の本革、最上部にはめ込まれた小型鏡…。
 すてきな一角を見つけ、思わず僕は近寄った!

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 重厚でビッグなモノグラム・ハードトランクの上にガラス板を敷き、その上に開いたトランクケースが置かれ、そしてその中に…ミニチュアの三階建て別荘があった!
 右側は女の子の棟、左側は男の子の棟。小さな空間が縦に三段造られ、それぞれ下から、朱色・鼠色・ペールピンクと、黄色・紺色・ペールブルーのスエードが敷かれた各室内、指大のガラスと木、木と革で作られた食卓と椅子、キッチン、フライパン、冷蔵庫、階段、棚、梯子、屋内ブランコと座るフラワー・マスコット、ベッド、ハード・トランク、作業机、コスメティック・トランク、バスルーム…。
どれもすべて掌サイズながら、モノグラムやゴールドの金枠や釘が精巧にあしらわれ…
 そして屋上に、…浜辺があった!
 これぞ、「常夏の海」! その背景、ペールブルーのスエードに縫い付けられたレザー・タグには〈®️LOUIS VUITTON PARIS made in FRANCE〉と刻印されてある。職人の本気の遊びやな、これは……。これこそ!と僕は画面の割れてないiPhone SEを取りだし、男の子の棟、女の子の棟、そして全景、とこの建物の中に入って初めて写真を撮った。


 せや! 僕はいいことを思いつき、近くにいたボーイに近よって、
「あの…」と発した。
「はい!」
「今日はここで珈琲飲めたりするんですか?(何を訊いてんや僕は)」
 今もしここで珈琲を飲めるなら、少々高くても飲んでみたいと思ったのだ。結論から言うと、僕はこの階がカフェだとてっきり勘違いしていた。しかしボーイは、
「えっと…少々お待ちください」と多少そわつき、僕からちょっぴり離れてインカムに何かを話した後、他のボーイに問い合わせに駆けていった。え、あ、と申し訳なく思った。
 他の皆は満足してきたようで、またエレベーターの近くに、ゆらりゆらりと集まった。そこでさっき質問を聞いてくれたボーイが寄ってきて、
「申し訳ございません、本日はお出ししていないとのことでした」
「あっ。そうでしたか。すみません、どうもありがとうございます」と僕が礼をすると、
「そんなん聞いてくれとったん、ありがとう!」と、横にいたタケシが言った。
「いやいやそんな、とんでもない。厚かましいこと聞いてもたわ」
その時近くにあったドアが開き、エメラルドグリーンに妖しく光る小さな空間から出てきた黒服が扉を支え、続いてタクヤが出てきた。単なる物の見たさで、自分もトイレに行っておけばよかった、なんてかるく後悔した。
 エレベーターの扉が開き、深いブラウンきらめく箱に、五人乗った。

 再び扉が開くと目前に、にぎやかな社交空間がひろがった。
 七階のここが〈LE CAFÉ V ル カフェ ヴィー〉世界初の、ルイ・ヴィトン・カフェだ。
 僕はエレベーターを最後に出て、皆に続いた。
 右手に広がる、円環状の壁に沿ったソファに小机と椅子を配置したサロン・チックないくつかの席は華麗な紳士淑女で満たされ、前方のバーカウンター、その前に並んだ大理石のスタンドと背の高い椅子にも、電話の画面に見入っている人はあまり見受けられない。誰も彼も、かがやく瞳で目の前の相手を楽しんでいる。グラス片手にしたほほえみやはにかみの花が咲く瞬間をいくつも目にして…
左手一面のガラス張りの向こうに、テラスがあった!
煙草を片手に話すモードかフォーマルな超格好良い人たちを見て、カジュアルな僕は(やった!ここで煙草が吸える!ひと時でも今日のこの場所の空気にマーキングできるなら!)と扉に向かって社交の合間をぬって進み、ガラス扉を肩で押してテラスに出た。
 灰皿はいずこや、と辺りをざっと見渡した。鮮やかなターコイズの石板が何枚もアイアンの脚組にはめ込まれたビッグテーブルと、それと同色の椅子・大きなクッションが置かれた背もたれが三脚並んだ先に、縦長の箱型灰皿が見えた。「あった!あっち!」と僕は示し、先に進んでもらったテツロウに続いて、ささやかな陣地で立ち止った。青丸のラッキーストライを一本取り出し、火を着けた。煙を吸ってはき、右横にサダちゃんもきた。が、彼はどことなく前方を瞠ったままだ。
「たばこ、すわへんの?」と訊くと、
「あっ僕、吸わないんです」と、彼は答えた。

 屋内に戻り、ウェイトレスからまたシャンパンをもらった。「奥いってみよよ」と先を見据えたタケシを筆頭に、混み合うバーカン前をじわじわ進み、ハードトランクが積まれた一角、と思わせる魅惑の隠し扉を抜け、会員制のレストラン〈SUGALABO V スガラボ ヴィ〉に僕らは入った。
 空間全体をほのかなオレンジ色のライトが照らし、天井からおりたキッチンを囲うステンレスがぎらぎら輝く下、入ってすぐ右手にはワックスぴかぴかのウッド・カウンターが続き、奥に見えるテーブル席の真上にはステンレスの鍋がいくつか並べられ、それらを炎(の仕掛け)がめらめらぐつぐつ燃え盛っていた。
カウンターに五人並んだ。グラスを置いてそこに腕をつき、身をゆだねる。
 深いブラウンの壁全域に銀の配管が張り巡り、その合間に大小いくつかの絵画が飾られていた。宙につきでたスタンドにはワイングラスが逆さまに何本も並んでいる。そして目前にある銀の大皿には、スライスされた生ハムが何枚もあった。
「いかがですか」とウェイトレスに促され、「お願いします!」と皆、答えた。  
 カウンターに仕えるウェイトレスたちの後ろには、格式あるレストランにしかないような、燻製された豚の胴体が固定されたスタンドがあり、それをウェイターがナイフで薄くスライスし、銀の大皿に並べていた。
 ウェイトレスが目前に出してくれたプレートに三枚ほど、ハムをのせてくれた。フォークを手に取りそれを口にすると、塩気がきいた独特の旨味と、とろけるような食感に、うっ、ふん。
「写真撮っとこ!」と誰かが言い「そーしよそーしよ!」とタケシのiPhoneの内カメラに向かって五人が身を寄せつつあると、
「撮りましょうか?」とウェイトレスが申し出てくれた。「お願いします!」
ビニールの手袋を外した彼女の手にタケシのiPhoneが渡って構えられ、「いきますよ」
僕はあごを引いたり上げてみたりしてる間に「はいチーズ」、パシャ!
「もう一枚いきま〜す」と間髪入れないウェイトレス。
「次変顔な」とタケシ。僕は大きく口を開け舌を垂らし、白目を向いた、パシャ!
「ありがとうございま〜す」「ありがとうございま〜す!」「あざーす!」
一つの画面を、五人が覗いた。一枚目。うんうんうんまあまあまあ、なんて皆の満足を耳にしながら僕は自分のひきつったニヤつき顔を見て、(まさにたまたまパーティに出てきた引きこもりや…)と思った。タケシが画面に指を滑らせ、二枚目。
「しばけん!タッハッハッハ!」「やばいやん、流石やな!」「なっはっは!」
 僕は一番笑われた。いや、笑いをとった。
しばらくして、「もう少しいかがですか」とウェイトレスに生ハムを勧められ、
「じゃあ、はい、おねがいします」とまたうまい肉片をプレートに載せてもらった。
 シャンパンをひとくち含んで、ペロリ、ペロリと、もぐもぐもぐ。ああ、うまい!
「そろそろ次行きますか?」タケシが言った。
「そうしましょ」とテツロウ。
「ご馳走様でした〜」「ありがとうございました〜」「ごちそうさまでした〜」 僕はグラスを手に取って飲み干さず持ったまま彼らに続き、レストランを出たところで二人の背中に、「最後もう一服していってかまへん?」と声をかけた。丁度テラスの席が空いていた。「いっときましょ!」と、タケシ。
 僕らはふたたびルーフ・トップに出た。
 ウッドデッキにどーんと佇む誰もいないターコイズの石盤大机と同じ色の大きいチェアは、大客船のスイート・プールを思わせた。皆てきとうにゆらり散り、僕は御堂筋側にある観葉植物の植え込みに近づいた。
「御堂筋見える?」後ろからそう聞こえた。
「いや、見えへん。全然見えへん」ビルの際までを遮る品の良い植え込みの隙間には、巨大な帆のファサードが迫っているのが見える。帆がすぐそこにあるということは詰まり、ここは船の帆柱の上である。それも普通の船ではない。ここ御堂筋心斎橋に錨を降ろした、世界の大旅行鞄店の豪華客船なのだ!
 ここから僕は、どこに向かっていくんやろう?
「なんか全然寒ないな〜」誰かが呟いた。
「いや絶対これやろ」すぐそばに、背の高いステンレス製の灯台型ヒーターが二台あった。天辺に傘のついたその上部にあるヒーターの朱色に手を近づけるとほんのり温く、辺りをほんのりと暖めていた。その元にも灰皿があり、僕は煙草に火を点けた。
 タクヤもやってきて、くわえた煙草に火を点けた。
 辺りに漂う僕らの吐く煙・燃える煙が、風に吹かれて、宙に消えていった。五、六個年下だが背丈は僕よりあるタクヤに、何か話しかけてみようかと一瞬考え、
「なんか、夢とかあるん?」と訊いた。
「え僕すか…僕は…スパイク・リー抜かして世界一のフィルマーに絶対なるっす!絶対!」「へぇ!ええやん!」と答えつつ僕は、(自分が書いたものもいつか映画化されればいいよな)なんて考えたが、口にはしなかった。

 灰皿に吸殻を落として僕は、画面の割れていないiPhone SEを取り出した。
Instagramを開き、トップ画面で自分のアイコンをタッチする。左手に持つグラスを画面上に含め、右手の親指で撮影ボタンに触れたまま歩き…座っているサダちゃんに寄っていって彼のグラスに自分のグラスを寄せ「乾杯!」「ぃえ〜い乾杯っ!」、と交わしたしたところで親指を離し、動画を画面上に残した。それだけで画面を閉じ、僕もターコイズブルーのひとりがけソファに座った。
するとトレーを片手にしたウェイトレスが扉を開けてやってきて、
「いかがですか」と何かを勧めてくれた。御来光のような線が何本も放射状に縁に施された高尚な皿にお米が敷かれ、最中が五つ、そこにあった。キャビアとチーズを挟んでいるらしい。穂の実った稲が一本添えられた最中たちの表面には、エッフェル塔の焼印が押されてある。
「え!いいんですか?!」
「はい!どうぞ!」とウェイトレスはほほえんだ。
「写真撮っていいですか?」と誰かが訊いた。僕もiPhoneを取り出した。
「どうぞ!」パシャ。パシャ。パシャ。
「ありがとうございまーす!」「いただきまーす!」と皆一つ手に取って頰張り、咀嚼し、あっさりと胃に落とした。「ごちそうさまでした!」
「ぼちぼち次いく?」とタケシ。グラスに残ったシャンパンを飲み干して僕も皆も立ちあがり、五人がガラスのドアから屋内に戻った。カウンターでグラスを返し、(またここに来ること、あるかな。あったらいいな)なんて思っていると丁度開いたエレベーターに、五人乗った。
 箱の中でテツロウは、iPhoneを裏返して水平に持った。そして天井の鏡に映る丁度頭上の視点から、エレベーターボーイを含めた六人の写真をパシャ、と撮った。
 扉が開くと導線の都合か、中二階だった。一階で待つ人は空の箱に乗れるってわけだ。
 エントランスの特設フォト・スペースで、輝くドレスのモデルっぽい女性たちがかわるがわる被写体になっている。フラッシュで瞬く度にポージングを変えるその姿を、五人してちらちら見ながら、ぷら、ぷらと、階段を降りた。
「キレ〜。めちゃきれないあの人?」テツロウが呟いた。彼の視線の先に、フランスと日本のあいの子っぽいドレスの女性、そのカメラ目線の先は、ファインダーを覗くタキシードの日本人男性。僕らよりちょい上ぐらいやろか。
「そうか?」と僕。それから、(あそこで写真撮るのは僕らはまあいいか)なんてそろって照れたか、そうでもないか、フォトスペース・入口の前でちょいぐだ、してると、
「ありがとうございました。パーティもひき続きお楽しみくださいませ」と出入口に立つ黒服たちに言われ、「ありがとうございました!」と礼をして、建物の外に出た。
「あっつ〜。なんかめちゃ暑ない?」とテツロウ。
「あつぅ〜い」とタケシ。
「今日だいぶあったかいなほんま」とサダちゃん。
 しかし外気を吸いこんでみると、鼻はすうっと涼しかった。吐く息も白かった。
地面のあちらこちらに黄色いイチョウの落ち葉がたまっていた。見上げると、枝だけになった木々が南北に果てしなく続く真冬の御堂筋の景色がそこにあった。が、二月を目前にしたその日の夜の気温は十℃前後だった。
 目前に、ミニバスが待ち構えていた。建物から流れ出てそのまま吸い寄せられるように、ふらっと五人、マッドグレーの走る箱に乗り込んだ。
 僕らがその便の一番乗りだった。

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