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わたしが尊敬する人 - 厳しすぎる叔母


今まで出会った人のなかで、一番「厳しかった人」は誰か

「厳しいの解釈は人それぞれ」という前提のもと、わたしの No.1 を挙げるなら母の妹、つまり「叔母」だ。


先日、母のことを書いた記事の中で「母とわたしが叔母に怒られた」という話に少しだけ触れた。

祖父の通夜で、母とわたしが盛大に酒盛りをしていたことに叔母がキレた。そんな話。

「爺ちゃんもきっとよろこんでるし、固いこと言うなよ」と言いたくなるが、叔母にそんなことは絶対に言えない。

叔母は「自分の正義を貫く」ことに長けていた。


今日は、叔母との思い出を振り返りながら、叔母からの教えを紹介させていただきたい。

こんな書き出しになってしまったが、叔母はわたしが尊敬する人の一人であり、返せなかった恩が山ほどある

この記事を読んでくれる方にとっても、示唆に値する何かがあると確信している。少し長くなるけれど、読んでもらえたら嬉しい。


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三姉妹同盟


叔母は三姉妹の三女として生まれ育った。

幼少期は祖母が入退院を繰り返す生活だったため、2人の姉たちが母親代わりとなって末っ子の叔母を育てたらしい。

そんな家庭環境だったためか三姉妹の結束は強く、大人になってからも交流は深く続いた。

長女は札幌で看護師に
次女(弊母)は釧路で専業主婦に
三女(叔母)は札幌で建築士になった

盆正月は、三姉妹の実家がある帯広に集まった。

祖父母、長女一家(5名)、次女一家(5名)、三女の最大13名が集まる盆正月は、最高に楽しかった。

夏はとうきび畑の探検から始まり、飽きたら川でニジマス釣り。冬は-20℃の風が吹く中、命を懸けた雪合戦。その後、ばあちゃんが用意してくれるお茶とみかんと六花亭のお菓子を食べる。


あれ?もしかして北海道の盆正月、最高か?


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末っ子同盟


わたしは母方の親戚のことをまとめて全員大好きなのだが、叔母はその中でも特に慕っていた。

叔母は、子どもがそこまで好きではなかった。騒がしい場所を好まず、思慮深い叔母にとって「子ども」はその対極だったんだと思う。

それでもわたしが叔母のことを好きだったのは、叔母が子どもたちといつも対等だったからだ。甘やかすこともない代わりに、頑張りや成果を年齢関係なく評価し賞賛する。そういう女性だった。

逆に、わたしは父方の親戚のことがあまり好きではなかった。

末っ子はわがままが許されるもんね〜
まだそんなに甘えてるの?さすが末っ子だね〜

そうことを言われるのが嫌だった。文字にするとどうでもいい気もするが、こういう発言をするときの「末っ子だもんね感」が心底イヤだった。

わがままなのも甘えてるのも認める。でも、それは末っ子だからじゃない。俺と母、俺と家族の関係があるんだ。そんなことも知らんくせに、ズケズケ入ってくるな。

幼稚園生くらいのわたしが言語化できたわけはないが、振り返って整理すれば、当時の嫌悪感の正体はこれだった。


それは「お年玉」で顕著に表れた。父方の親戚のほとんどは「姉5,000、兄3,000、私1,000」のように兄弟間で差をつけた。一方、母方の親戚はみな一律だった。

その影響で、わたしもお年玉は一律で渡している。「意図のない年齢の考慮」をする意味がわからない。年上が偉いわけでもなかろう。


話を戻すと、特に叔母はわたしの心理を汲み取ってくれた。末っ子同士、幼い頃からいろいろな想いを共有したと記憶している。


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カレー事件


ひとつ、エピソードを。


わたしが小学3,4年だった頃

叔母がバイクに乗って一人、釧路の我が家にやってきた。


このときの来訪には

叔母が自慢のカレーを作る

というイベントが盛り込まれていて、わたしたちは心待ちにしていた。


しかし、さすが叔母。

子どもが好むようなカレーは作らなかった。

出来上がったのは「手羽元煮込みカレー
最高にスパイスが効いていた。

弊姉「辛い。無理」

弊兄「・・・」

ワイ「 … おいしい!! 」

辛いものが極端に苦手な姉はさておき、兄よ、おまえはもう少し頑張れ

そう思いながら、末っ子同盟として頑張らざるをえないわたしはカレーをおかわり。誰よりも小食だったはずなのに…


さすがに君たちには早すぎたか

叔母は気にも留めず、換気扇の下でタバコを吸っていた。


あのときのカレーをもう一度食べてみたいと、今になって思う。

それはもう、叶わなくなってしまったが。


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建築同盟


幼少期の話を中心に書いてきたが、叔母との関わりは大学〜社会人になるにつれ深くなっていった


大学生になったわたしは、叔母がお世話になっている会社でアルバイトをした。もちろん、叔母の紹介で。


就職してからは、わたしが勤めていた飲食店に来ては、手厳しい意見をくれた。

この新商品はちゃんとディスカッションして決めたの?これじゃお客さん満足できないよ?


転職する際も、相談に乗ってくれた。

わたしはITはよくわからないけれど、なんでその会社なの?もっと調べる方法はないの?


その後、わたしは建築関係の職に就き、建築士の叔母と同じ業界で仕事をすることになった。


叔母とはよく、仕事のことでLINEをした。ごはんも定期的に食べに行った。

「たっちゃんがいると、ごはんが進むわ〜」

叔母が少しだけ痩せていることが、気になった。


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事業主同盟


「ステージ2の肺がんだって」

母から電話があった。


50歳を過ぎたばかりの叔母に訪れた試練。

「進行が早ければ3年もたないって」

膵臓がんで51歳の若さで亡くなった長姉の、良くない記憶が蘇る。


しかし、久々にあった叔母はあっけらかんとしていた。

「なったもんは仕方ない」


抗がん剤治療、オーガニックフード、酵素を取り入れた食生活。

あらゆる対抗策を講じた叔母は、余命と言われた闘病生活3年目に会社を設立。


「悔いのないように生きる」

芯の強い、叔母らしい決断だった。


そこからの叔母は癌をものともせず、仕事にプライベートに精を出していた。


【叔母、母、わたしの3人で焼鳥屋に行ったときの話】

会社員をしながら個人事業を始めていたわたしは、叔母から色々なことを教えてもらった。一方、母はお疲れモードで愚痴全開。正義感の強い叔母とわたしで正論をぶつけまくり母は号泣。

さすがに申し訳ないことをしたと反省したが、今となってはいい思い出 …?笑


😂__________


突然の別れ


肺がんの発覚から8年が経ったある日

「Nさんが亡くなったって」

母から連絡がきた。


「Nさん」とは叔母の相棒であり、会社の共同創設者であり、叔母を支えてくれていた人だった。

そんな「元気だったNさん」が脳梗塞で突然死。


その直後に会った叔母は、さすがに疲弊しているように見えた。

「まぁ、なんとかやってくさ」


2018年、2月。

それが叔母との、最後の会話になった。


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最期


相棒が亡くなってから2ヶ月の間に、叔母の体は一気に衰弱した。

入院生活になった叔母は、早々に会話ができなくなった。


そして、親族が交代で看病をしていた4月下旬。

叔母の容態が安定したのを確認し、母とわたしが一時帰宅をした直後に、容態が急変。


歩いて10分かからない道を、車でぶっ飛ばした。

ギリギリだった。


「なんで、わたしが帰ってるときに逝こうとするのさ」

「まぁ、頑張ったわね」


最後の瞬間さえ愚痴を言う姉とその息子、18年前に先立った長姉の娘たちに囲まれ、叔母はそのまま亡くなった。

59歳だった。


✏️__________


叔母の言葉


あれから5年。

わたしはその間に結婚したり、いろいろあった。

叔母に結婚の報告ができなかったのは悔やまれるが、そこまで頑張れなかった叔母が悪い。


いや、こんな文章を叔母に見られたら

「別にわたしは結婚姿を見せろなんて言ってない」

と言われてしまいそうだが。


とにかく、叔母からもらったたくさんの言葉は、今もわたしの中に強く残っている。


✏️__________


だいぶ長くなっている本記事ではあるが、最後に一つだけ紹介して終わりたい。

弊母、焼鳥屋号泣事件」の翌週に叔母からもらった一枚の手紙。


ただ、躊躇している。

生前の叔母に「載せていいか」と聞けば、間違いなくNGを喰らうだろう。叔母は表に出たり、自分のことを話題にされるのを好む人ではない。

ここまで書いたこともすべて「載せないで」と言うだろう。

叔母が生きていれば説明をさせてもらいたいところだが、それはできない。


考えた結果、わたしは紹介することに決めた。

その理由については、叔母の言葉を紹介したのちに触れたい。


 金曜日は美味しくて楽しい時間を過ごすことが出来、その上ご馳走にまでなり、ありがとうございました。
 大きな声で話して、常連のお店だったのでしょうに、恥ずかしい想いをさせましたね。反省しています。

   〜 中略 〜

 先日も話した事ですが、60年近くも生きて来て、昔を振り返ると、曲り道を曲った先に何があるのか、曲る迄は怖いのですが、曲ってみると、そうでもなかったと思います。要は曲るか、曲らないか。結果を引き受けるのは、自分でしかないのですから。


A4の便箋に、叔母の大きくハッキリとした文字が並んでいる。

わたしは今も、たまにこの手紙を見て、勇気をもらっている。


そうだよね。曲るか、曲らないか。

結果を引き受けるのは自分だ。


この投稿を見た親戚は、どう思うだろう。

叔母のことを世に出すなと、思うだろうか。

そしてこの世にいない叔母は、どう思うだろうか。


自分中心になってはいけない。だけど、わたしには伝えたいことがある。

2日間、考えた。

叔母に会ったら、ちゃんと納得してもらえる説明が出来るのか。


出来ると思った。

叔母は、わたしがこの記事を書いた理由や意義を理解してくれる。

叔母の信念に沿えば、喜びはせずとも制限はしないんじゃないか。


わたしは叔母の言葉に、大きな力があると信じている。

無理を承知で、公開させてもらいたい。ごめん。


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便箋の最後に、もう一文、書かれていた。


達ちゃんの人生、楽しんで下さい。幸せでいて下さい。


自分の行動は自分で決める。その責任は、必ず全部とる。

曲った先がどうなっているか、わからないけれど

俺はこの道を進むよ。


進んだ先の自分は、今よりもっと幸せだと、信じてるから。

たまに、便箋を開くこともあると思うけど

絶対、幸せに生きるよ。



だから、これからも変わらず

厳しい目で、見ていてください。


あなたが想像もしていなかったほどに

幸せになるからさ😊



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