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人は偏見をもつ生き物

こんばんは、こんにちは。
飛び亀です。

小難しい話を簡単に話すのが夢なんですが、小難しくなります。

「みんなちがって みんないい」

かの金子みすゞさんが詩に載せた言葉であり、日本で教育を受けたならば大抵の人が知っているのではないかというレベルのお話です。

後にSMAPの「世界に一つだけの花」なんかでも同じようなことを歌っていましたが、一卵性の双子であっても同じ人というのはいないわけで、ひとりひとりが「違う」というのは当たり前の当たり前。

では、それを良しとするのかどうか。
多くの場合、「みんなちがって みんないい」は大切な言葉として、良い意味で教えられます。しかし、それを日々実践できている人はそうそういません。

色々なパターンが考えられます。
・大切だと分かっちゃいるけど、そんな風にいつも思うことは出来ない。
・人は社会性の生き物だ。ある程度「同じ」に揃えなければ迷惑にもなり、生きていくことはままならない。
・俺が一番だ。みんないいなんてことはない。
・広まりすぎていて気持ち悪い

まあ様々な考え方がありますが、僕個人としては本当に「みんなちがってみんないい」と思っています。結局は、脳も身体も違う一個人ですから。

ここからは、上記の1つ目「大切だと分かっちゃいるけど、そんな風にいつも思うことは出来ない」のは何故なのかを考えてみます。

「違う」人たちに対する敵意

心理学的には、自分と違うものを「良い」と思えない心理について様々な角度から説明がなされています。

心のバランスを取るためとか色々面白いんですが、社会・集団心理学的には自分のグループを上げて別のグループを下げるような心の動きも説明されています。今回はこの話。

違うものを敵と見て、自分が所属する(と思っている)同じ仲間たちへの帰属意識を高めることで、自分自身の肯定感にもつながるとか。

つまり「△△中学は敵だ、あいつらは俺たち○○中とは違う酷い奴らだ」と思うことで自分が安定するわけです。

敵味方、白黒はっきりしている方が人間は落ち着くようで、「あいつらにも良い奴はいる、逆にうちにも悪いのがいる」みたいな曖昧な状況は苦手、という方も多いですね。
結局そんな白黒はっきりなんて現実的ではないため、ある程度の曖昧さに耐える力は現実適応にもつながっていきますが……そんな話は今は置いといて。

ともかく、自分と「同じ」味方集団と、「違う」敵集団を設定しておく方が自己肯定感などを保ちやすいと。政治的な話なんて今(昔も?)そんなのばかりですし、匿名掲示板を見ていてもレスバの根源にはそういうのがある気もしますね。

金子さんに倣うなら、敵も味方もみんな自分とは「違う」、それどころか敵同士もひとりひとりが「違う」はずなのですが。

敵は敵、味方は味方。ひとまとめに捉えてしまうのは、ある種の「偏見」でもあると思います。厳密には用語の意味が異なるかもしれませんが……

人をグループ分けすること

そもそも、ある程度似ているものをひとまとめに捉えてしまうのは、ヒューリスティクスという人間の効率的思考法に拠るところもあります。全てを別々に捉えていたら脳みそが保ちません。

そこにかまけて、都合のいいように「敵グループ」を括ってしまうのは偏見的だなぁと思うのですが、「グループで括る」という考え方は科学的にもなされています。

もちろん、心理学でも人間をグループ分けする考え方がありました。類型論といって、いわゆる人間の性格をタイプ分けするやつです。

昔々、当時としては科学的な方法で「肥満体型の人は躁鬱気質で、人当たりは良いがうんぬん」「筋肉質な人は粘り強く几帳面だがうんぬん」「痩せ型は内気で繊細でうんぬん」などの分類をした人がいました。

今はもちろん、きっちりみんなが当てはまるような正確な性格分類ではないとされています(というか、もともと精神病のなりやすさ分類でしたが、その正確性も100年以上前の科学レベルです)。

だいたい数十億人もいる人間に対して、タイプ分けが完璧に当てはまることなんてないことは、現代の人間ならおおよそ分かっていることです。

それでも、人間は類型論が好きです。血液型が代表例。
なぜなら、分かりやすいから。自分と同じ、違うが判断しやすいから。

ちなみに僕も類型論好きです。

類型論と特性論

さて、類型論と対比されるものに、特性論というのがあります。
雑に、現代風に?説明すると、能力値やステータス値のことです。

例えば100点満点として、
「外向性」90点
「誠実さ」20点
「優しさ」40点
「想像力」80点
「精神安定」30点

みたいに性格っぽい項目(特性)を決めて、数値的に表す考え方です。

この理屈に乗っ取ると、細かく項目を設定し、目盛りも細かくする(満点を大きくする)ことで、事実上は全人類を「違う」存在として捉えることが出来ます。もちろん数字に善悪はありません。

単純に上記の5項目100点満点でも、(0を含めなければ)100×100×100×100×100通りの点数パターンがあり、それだけの「違う」性格を表せます。

ところが、「みんなちがってみんないい」を地で行けそうな特性論には大きな弱点があります。シンプルに「どんな性格の人か分かりにくい」ということです。類型論と真逆。

数字だけで人の性格を捉えるのは困難なため、それを分かりやすくするためには言葉がつきます。上記の例で言えば以下のような説明がついていきます。

「外面は良くてアイデアも豊富だけど、誠実さや他を思いやる気持ちがやや欠けていて、気分のコロコロ変わる人」

まだギリギリのラインですが、じわりと類型論に近づいていると思いません?

そういう奴いるいる!
と思ったあなたは、もう類型論の枠に入っています。ぶっちゃけ偏見です。

とはいえ、特性論を一般に持ち込むには、どうしてもこうやって類型論との融合を図る必要があります。

質問にたくさん答えるタイプの心理テスト、やったことありますか?
結果として、「あなたはこんな人」と出てきますよね。
心理テスト自体は、回答を数値計算するという特性論的な処理をされています。しかし結果を出す際には、「(○○特性が何点で△△特性が何点だから)あなたは☆タイプ!」と類型論にあやかって表示します。点数だけ出しては、解釈がバラバラになってしまうので。

つまり、人間はどうしても人の性格に対して類型論的な理解を抜け出せないのです。

これでは、自分と他人を勝手にタイプ分け、グループ分けする偏見がなくなるはずもありません。なくなるはずがないのです。

だからこそ「みんなちがって みんないい」

つまり、人は自然に偏見を生み出す生き物です。
「ひとりひとりみんな違う」などということは、そもそも理解しづらいし、理解しようとしても敵味方が曖昧になり、不安定さを呼び起こします。

しかし、だからこそ金子さんは「みんなちがって みんないい」という気付きを共有したのではないでしょうか。もはや当たり前の呪文のようになっている言葉ですが、人間的にはこれは相当気付きにくい話のはずです。

無意識的に人を類型化し、あわよくば敵味方を設定して戦いを引き起こす人間ですから、やっぱり意識的に「みんなちがって みんないい」を心に置くことは大事だと思います。

あんまり呪文のように広まりすぎて気持ち悪いと言われるまでになった言葉ではありますが、じゃあ要らないと捨ててしまえば簡単に拾えるものではないということ。

何度も言うように人間の心理上、「違うのがいい」なんて実践できない方が当たり前です。が、それでも捨てないという矛盾を心に抱えることになります。

うーん、結局白黒つかないものを心に抱えておく力、ここにつながるなぁ。

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