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感情と論理

「淘汰圧」の観点からは「仲間を殺すな。仲間を殺したものを殺せ。」というのが行動原理だったのだろう。この行動原理は「感情」に基礎を置いていると思う。

ただし社会環境の変化によって「仲間」の範囲も変化する。更に「仲間を殺さない/殺されないための方略」として「論理」が発達してきたのではないか。

一方で、当初の適応戦略が社会環境の変化にともなって適切では無くなってきているという可能性はある。また、人間が生き残るための感情なのか、感情が生き残るための人間なのか、とういう問題もある。

相手の「感情」が、「あなたのその感情が生き残るためにはあなたの身体が生き残らなければならない」という説得を行う際の適切な交渉相手なのかどうか。

そういった諸々の限定条件付きでならば、「論理」は人間同士が殺し合わないために発達したと言える。

「人間」は「人間」が、「感情」は「感情」が、「論理」は「論理」が生き残るために環境や他の「人間」「感情」「論理」に働きかける。そして、自らの目的に適う範囲で互いに利用し合う。しかし、条件次第では必ずしも「信頼できるパートナー」ではない。

進化的には論理は感情が特定の目的のためにアウトソースした下位システムだと思う。論理は感情の下僕、と言ってもいい。しかし起源はどうあれ、近代社会においては感情が生き残るために論理が極めて重要であり、人間が生き残るためには場合によっては感情は目的合理的ではないということはあると思う。一方、そのようなことを相手の心理システムのどの部分に、どのようなモードで伝えるのが得策かは別問題である。

「感情」「論理」が心理学的/神経科学的にどのようなシステムであり、各々が個人の脳内でどのように相互作用しうるのか/しえないのか、他者の「感情」「論理」とどのように相互作用しうるのか/しえないのかということは、心理学/神経科学でそれなりに研究されているだろうし、もっとされてもいい。

進化心理学が「本質論」に結びついて過度に保守的になってしまうと環境変化への適応を阻害するだろうが、事実としてそのような「慣性」があるのであれば、方略という観点からはそれをどこかで念頭に置きながらことを進めないと「成功」しない。何を持って「成功」とするかはともかく。

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