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「理解」の政治性

「たとえ」「比喩」は、物事の理解を助けるために大変有効であり、一般論としては積極的に活用されるべきであろう。しかし、「たとえ」に使う素材そのものが持つイメージが、理解を、ある特定の判断に引き寄せてしまう可能性があることには自覚的である必要がある。我々は、意図せず、そのような「判断の引き寄せ」を行っているかもしれない。一方で、場合によっては、「それを意図して」特定のたとえを使っている説明者もいることを忘れてはならない。

理解は、言うまでもなく重要である。しかし、理解するのもさせるのも、時間と労力がかかる。理解という行為は、一方でその時間と労力を、他のことに差し向ける機会の損失を伴っていることを忘れてはならない。ある特定の対象に限定した理解に関わるコミュニケーションを促進することは、(意図せずとも)他の対象から目をそらすことでもある。かかる「政治性」から、我々は逃れることはできない。

一方、「理解する」「理解させる」こと自体、ある種の快感、達成感をもたらす。これ自体は悪いことでも何でもないが、その感情は、「安心のようなもの」に結びつきやすいのではないかと感じる(これは単なる直観だが)。

ケースバイケースである。「理解による安心」が有効な場面は多々ある。一方で、「安心している場合ではない」時に、「理解による安心」を生み出してしまうことが、不適切な結果をもたらしてしまう危険性もある。ここにも政治性が潜む。

もちろん、適切な理解によって無用な不安を取り除くことが重要であることに変わりはない。しかし、何が「無用な不安」なのかは一概には言えない。誰かに決めてもらうことではなく、自分自身が決めるしかないことなのかもしれない。また、「適切な理解」によって必ずしも「無用な不安」が取り除かれるとは限らない。

「適切な理解による安心感」が「合理的な不安」を取り除くことに作用してしまうかもしれない。また、「適切な理解」のために時間とエネルギーを費やすことが、「合理的な不安」に対処するための時間とエネルギーを奪ってしまうかもしれない。

理解は、政治的である。と同時に、政治は重要であり、かつ、どのように政治的であるべきかという問題も、重要である。そこで一周して初めて、適切な理解、に向き合うことができるのだと思う。

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