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本音と建て前/倫理的批判と功利的批判

(※ある方とのtwitterでの議論のうち、私の発言部分のみを抽出。一つの文章として統合するために一部改変。)

「日本人が本音と建て前を使い分けること」が問題なのではなく、「日本人は「本音と建て前を使い分けること」がすぐバレてしまうほど、徹底して建前を貫き通せないこと」が問題なのではないだろうか。逆に、「「本音で」「腹の底から」「信念として」○○と思わなければならない」という発言は、どのような相手に対して、どのような効果を発揮することが想定されているのだろうか。

極めて倫理的な発言をする海外の要人たち(もちろん例外あり)は、根っから徳の高い人格者なのか、あるいは腹の底で何を考えていようとも他者からそう見られるように高度に自らを制御する能力を備えているのか。前者だとするとそれを「待望」することに有効性はあるのか。

後者だとするとそういった人間の輩出にはどのような社会環境、教育環境が必要なのか。日本においても伝統的共同体の崩壊とグローバル化にともなって環境条件が激変すると、前者、後者の人材が輩出される可能性は高まるのか。

念のため強調しておくが、私は「腹の底」を問題にする立場は取っていない。正に「発言と行動がどうであるか」を問題にしているからこそ、「徹底して建前を貫き通す」能力と意志を問うている。

さらに、まさに「社会制度の文脈において腹の底を問題にすることが、まさに日本的ではないか」と私自身も思っているからこそ、高度に制御された発言をする海外の要人の能力と意志が人格や徳の問題に帰属されることを危惧して、「徹底して建前を貫き通す」という表現を使ったのである。

言論による批判を行う時に、「お前はひどい悪人だ、非倫理的、非道徳的だ」と言うのと、「お前の発言は国民の利益を著しく損なう結果を招く」と言うのと、どちらが有効か、という問題である。「少なくとも権力による制度で腹の底をいじくろうとするべきでない、という当然の前提がある時点で、みずから発言と行動を律することしかありえない」という意見には全く同感だが、そのような状況をどうやって作り出すかが私の関心である。

私は「倫理的批判」によって相手が倫理的な言動を行うようになるか(=倫理の伝達は可能か)という点については残念ながらかなり悲観的である。また万が一「伝達された」としても、倫理(=共同体から独立した普遍的規範)と道徳(=特定の共同体に固有の規範)が混同されやすい状況においては、本人が「道徳的であろうとすること」によって、却って「非倫理的」な言動に結びついてしまう可能性や、逆に本人が「倫理的であろうとすること」によって、「非道徳的」な言動に結びついてしまう可能性やが少なくない。

さらには、この「倫理と道徳の混同」の問題は、非倫理的な相手を批判してポジションから引きずり下ろし、別の相手に入れ替える、という方法をとってもついて回る。つまり、いずれにしても結果が保証されない可能性が高いというのが私の認識である。

そのような場合、結果としての倫理的状況を作り出すために、むしろ(現時点では)功利的批判を有効に使うべきではないか、それを使わない方が「非倫理的」なのではないか、というのが私の主張である。私の主張する方法が最善のものだとは考えていないし、やがて「権力による制度」ではない、市民主体の文化環境の醸成によってそれほど悲観的ではない状況が生み出されるのかもしれないが、今のところそういった方法をとっていくしかないのではないかという見立てである。

当然ながら、倫理的問題は厳然として存在する。私の主張は「倫理的問題の回避・等閑視」を意味するのではなく、「「高い倫理性に基づく」と認識されるような言動を行うことの「功利性」」の観点から功利的批判を行うべきだということであって、結果はどうあれコスト回避のための「功利的」振る舞いだと簡単に認識されるような稚拙な行動は当然功利的観点から批判されるべきだということである。

「徹底して建前を貫き通」すべき、というのは「徹底して高い倫理性に基づくと認識されるように発言し行動すべき」ということであり、それを相手に実現させるには、そうしないことの「非功利性」の観点から功利的批判を加えていくのが最も有効ではないかということである

。短く言うと、「非倫理性のコスト」を功利的観点から批判するということである。さらに、何が非倫理的かという網目を細かくしていって抜け道を減らし、非倫理性のコストへの理解を促進していくことで、その功利的批判の有効性をより高めていくことが可能だと考えている。

ちなみに、コストというのは金銭的コストのみを意味するものではない。従って、倫理的問題を功利的問題にすり替えるのではなく、「倫理性の功利性」という形に問題を再定義すると言うことである。もちろん、それによってもやはり、「倫理という概念自体を磨滅させる」可能性について全く楽観的であるわけではないが。

当然ステークホルダーによって、「何が功利的か」に関する食い違いは多々あるだろう。その場合も、直接相手に「倫理的たれ」と言うよりは(あるいは言うだけでなく)、批判される側がその行動を功利的だと判断しないような社会・コミュニケーション・制度等の環境を、批判者側が作っていくことによって、批判される側の功利性追求のゴールに影響を与えていくことが可能だと思う。

倫理性はいかにして可能か。「生育環境(人的・文化的・宗教的)の中で自然と身についた」「偉大な他者に感染した」以外の動線を取り得るか。倫理的批判をすることによって、相手の「倫理性」を醸成できるのだろうか。オーディエンスへのメッセージという観点から必要条件であることは否定しないが、十分条件かというと、(繰り返しになるが)かなり悲観的である。

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