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あなたはGeorg af Klerckerを知っているか?

 映画は、時に、思いがけぬ遭遇を組織する。それは、スウェーデンという北欧の一国におけるサイレント映画の作家といえば、やがて合衆国に渡ることにもなるマウリッツ・スティッレル Mauritz Stiller とヴィクトル・シェストレム Victor Sjöström あたりを知っておきさえすればよかろうと高をくくっている(とはいえ、彼らの作品もじゅうぶんに視界に収めているとはとてもいえない)私を深く恥じ入らせ、いっぽうで不意の遭遇に興奮を抑えられず、もどかしくも筆を執らせもする。
 とはいえ、これから触れようとする人物は、国際的にはマウリッツ・スティッレルやヴィクトル・シェストレムに比べてあまりに知られてはいない。というのも、彼は、スウェーデンの首府に置かれた映画会社でスティッレルやシェストレムが名声を高めつつあった1918年に、すっかり映画を撮ることをやめてしまうからだ。それは、1912年に映画を撮り始めて(この年はスティッレルやシェストレムの登場とまったく同じだ)ほんの6年ほどしか経過してはいないころであり、スティッレルやシェストレムが合衆国に招かれる遥か以前のことである。その後、半世紀以上が経過した1986年のポルデノーネ映画祭の回顧上映で再発見されることになるが、21世紀の日本では、その名がじゅうぶんに流通しているとはいえない。ゲオルグ・アフ・クレルケル Georg af Klercker は、今なお未知の映画作家である。(実際、この片仮名表記が正しいかどうかわからず、このようにいっているように聞こえるという程度にすぎない)
 クレルケルがそのごく短いキャリアのほとんど終わりに撮った『25日の夜の謎』(Mysteriet natten till den 25:e, 1917)なるタイトルの映画は、たとえば、同時期のルイ・フイヤード Louis Feuillade の犯罪活劇を思わせるスリリングな短編だが、その面白さに加え、注目さるべきは、画面の光と陰への繊細きわまりない感覚であるように思う。この映画は、主人公である探偵が椅子に腰掛け新聞に目を落とす様子を画面中央で捉えたフィックスのやや引きのショットで始まる。この時、探偵のいる部屋は彼のほぼ真上で輝く電灯と、窓の外から差し込む月光と思しきやわらかな光のふたつの光源を除いては真っ暗であり、実際、彼の周囲の室内の様子はほとんど視認できない。さらに別の画面を挙げよう。探偵は悪党を追跡しインターナショナル・クラブに至るが、この時、このクラブの建物の外観を捉えるようなことはせず、玄関口にあたる大きな扉の先の階段を登った先にキャメラを据え、その方向は扉に向けられている。だから、画面は手前が暗く、画面奥の開かれた扉のさらに外の様子まで捉えることになる。このような繊細な屋内外を接続するようなキャメラワークを、サイレント映画で観た記憶はほとんどない。屋内外を断絶させるのではなく、繊細な光と陰を捉えることで窓や扉といった装置を通して空間を接続し往来可能とすることで、画面の奥行きも増し、豊かな映画的空間というべきものを作り上げている。

 だが、クレルケルの作品の特徴を、見事に捉えられた光線による屋内と屋外のシームレスな描出のみで断じて良いかというと、どうやらそうでもなさそうだ。翌年に撮られた『ノーベル賞を受賞した男』(Nobelpristagaren, 1918)においては、屋内と屋外は明確に区別されており、ひとつのショットで屋内と屋外とを見事に調和させるといった画面は出現しない。だが、いうまでもなくそのことは、『ノーベル賞を受賞した男』が注目に値しない作品であるということを意味してなどいない。
 ここでスウェーデンという国が抱えることになり、20世紀終わりにスキャンダラスに噴出することとなった事実について、ごく簡単に触れておきたい。スウェーデンにおいては、1930年代以降、70年代に至るまで、優生学を背景とする強制的不妊治療が実施されていた。ドイツの影響を受けたこの思想は、1900年代の終わりにはすでに、スウェーデン人種衛生協会の設立という形で露わになりつつあった。この種の優生思想は、『ノーベル賞を受賞した男』にも影を落としている。映画の中心となる人物は、戦時下に致命的な傷を負い半身不随となった女性を演じるメアリー・ジョンソン Mary Johnson である。彼女には、医者で婚約者の男性(彼こそ「ノーベル賞受賞者」である)がいたが、彼は戦時下で捕虜となりつつもそこで知り合った別の女性と関係を持つ。やがて婚約者の男女は再会することになるが、そこには別の女性の存在があり、それが再会を楽観的に祝福させない要因にもなっている。映画は、半身不随という過酷な運命を背負わされたメアリー・ジョンソンを思い入れたっぷりに描くが、いっぽうで別の女性が最終的に男性との関係性を恢復させるに至る。ここでは、現実的な、というのはつまり、半身不随という、優生思想的には劣性と判断されうる女性の敗北(彼女は死に至るだろう)が描かれているのであるが、何よりすばらしいのは、この種の厳しい緊張関係を、過剰な抒情を排し、あくまで慎ましいキャメラワークで捉えきっていることにある。

 ここまで、ほんの2作品について述べてきたが、最後にひとつだけ触れておきたいと思う。それは、『ノーベル賞を受賞した男』と同年に撮られた傑作というほかない『夜の音色』(Nattliga Toner, 1918)である。屋内外問わずゆたかな光と陰への感覚が反映されたすばらしい縦構図の画面(とりわけ、男爵が夜、ベッドから起き、酒を一杯煽ってから再びベッドに潜るまでを捉えた一連のシークェンスの見事さ!)、あくまで慎ましいショットの連鎖で物語る手腕の確かさといったものを発見すべきだ。映画史は、未だ忘却されたり無視されたりしており、絶えざる発見と更新がわれわれの視界をより豊かなものにしてくれるはずだ。


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