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「ほんのわずかな時間に」(2022年11月)

●11月1日/1st Nov
今日から11月に入る。世界情勢や政治的な状況について、今更ここであれこれ言うつもりはないが、報道されてることもされていないことも併せて総合的に見ると、かなりなことにはなってきているように思える。アメリカ大統領の中間選挙も迫り、今月あたりから山場に差し掛かるかもしれない。

丁度一年前に「まなざしの革命」を書き上げた頃は、まだ何とかなるような気もしていたので、ギリギリの所を書いた。もちろんその後もあちこちで訴えかけては来たが、そもそも聴く耳を持たない人の方が多いし、そういう人は本も読まないし関心も持たないだろうから、仕方あるまいとも思う。この本に何が書いてあるのかも知らないだろうし、あの時何が起こったのか、そしてこれから何が起こるのかも関心ないだろうし。

ただね、無関心を決め込んで踊ることに夢中になるか、世のためと言いながら自分に注目を集めることに腐心するか、あるいはヤバいヤバいと言いながら右往左往するような大人たちばかりになって、社会システムも人々の信頼も壊れた後に生きねばならない子供たちが可哀想でね。ここらで賢い大人達に出てきてもらわないと。

●11月4日/4th Nov
岡山で開催されている現代アートの芸術祭「岡山芸術交流」。トリエンナーレ形式で2016年から行われているが、今年はタイの現代アーティストのリクリット・ティラヴァーニャをアーティスティックディレクターに迎えて開催されている。
 リクリットは人々の「関係性」をテーマに表現するアーティストで、その趣旨でアーティストが集められているが、彼自身が2017年から展開している「オイルドラムステージ」という作品がある。
 これはステージ上で様々な人々が自由に声を上げて表現出来る場として設定されており、そこで繰り広げられる出来事自体が彼の考える「社会彫刻」を体現する場なのだが、今回の会期中のそのステージでの出来事のキャスティングとして、僕が敬愛する岡山の能勢伊勢雄さんのライプハウス「ペパーランド」が担っている。
 ハナムラもキャストとしてお声がけ頂き、リクリットの作品の上で表現する機会を頂いたので、休みを利用して現場の確認に伺った。いつものように能勢さんと朝まで話し込み、この芸術祭の経緯を聴きながら、この時代においてのアートの社会的役割について互いに確認し合う。その話は次の革命放送で少しシェアしようと思う。
 現場におもむき、現代アーティストの曽根豊さんの作品の前に置かれた大理石のオイルドラムステージで色々とプランを練る。今月の22日に『わたしと居た時間はほんのわずかかもしれないけれど』というタイトルだけ決めて登壇する予定だが、せっかくリクリットの作品の上なので、僕なりに今のこの時代における「関係性」を読み解き、何も声を発しないで関係性が紡がれるのかという少し実験的な試みをしてみようと画策中。

●11月5日/5th Nov
 昨日、今日とは経済学研究科の大学院生の修士論文中間発表で指導の時間。今年は9人の発表でテーマもバラバラな上、ほぼ初見に近い状態で毎回最初にコメント求められるので、頭の切り替えに少々疲れる。
 テーマは、行政施策に関わるものから蒸気機関車の価値変遷、過疎地の神社再建からスポーツクラブの研究までバラバラ。だからそれぞれの論文の中身についての理解には濃淡があるが、論理的に記述する上でのフレームや構成については、概ね同じことを伝えている。
 調査をしている本人は、同じ頭の中で考えていることなので、自分の記述が事実なのか分析なのか、考察なのか願望なのか区別つかなくなりがちだ。そして往々にして、研究目的なのか結論なのかが混同してしまい、トートロジー(同義反復)的になることもある。
 我々研究者は訓練を積んでいるので、普段から意識して社会の現象も人の言動も分析的に捉えるクセがついているのだが、社会人大学院生の多くはそういう訓練を積んでいない。でもそのまま、仕事の中で自分の主観を表面的に客観性を帯びた形に見せる術だけ長けていることがある。
 そのあたりをズバリと言うと傷つくので、出来るだけ"優しく"聞こえるように気を使うのがなかなか大変(院生から言わせると全然優しくないかもしれないが...)。素直に聞ける人ほど伸びが良いが、なかなか難しい人もいるので、指導も難しい。

●11月7日/7th Nov
 「ゲーテ自然科学の集い」の本年度のシンポジウムをzoomで拝聴する。基調講演は慶應義塾大学の名誉教授で進化生態学の泰斗であられる岸由二先生で「進化生態学の革命と日本の生物学・自然論の変化」というタイトルでお話された。
 岸先生はR.ドーキンスの「利己的な遺伝子」や社会生物学 を提唱したE.O.ウィルソンの「人間の本性について」などを翻訳された著名な方。講演も進化論の歴史から提唱された流域思考まで非常に分かりやすくハイレベルなお話だった。
 パネル発表としては、東京大学で現代音楽と物理学をご専門にされる伊藤乾先生、サントリー生命科学財団で生物の代謝のご研究をされる酒井翼先生、そしてこの会を主催されるゲーテ研究者の粂川麻里生先生という豪華な顔ぶれ。話題は自然科学から人文科学まで縦横無尽に往来する豪華な内容で、最後まで楽しく拝聴させて頂いた。
 最後のパネルディスカッションで皆さんのお話を聞きながら色々と考えを巡らしていると、粂川先生から何かコメントをとご指名されてしまった。心の準備もなく焦ってあたふたと舌足らずに話してしまったので、おそらく真意は伝わってはいなかったと思うが、それでも丁寧にお答え下さった岸先生に心より感謝。

人間にはデカルト座標に基づいた抽象的な地図と同時に、ランドスケープとして自分を定位する"本能としての地図"がある。レルフやトゥアンの現象学的地理学の知見を引いてそう岸先生が仰ることに、ランドスケープに携わるものとして感動する一方で、最近バックミンスター・フラーを再読していることもあり、伊藤先生の海進の話にもあったように、人類の起源と移動の歴史が陸ではなく海を中心とするものであるならば、ランドスケープが変化し続ける海における人間の定位にはどういう本能が備わっているのかという別の可能性も聞いてみたくなった。
 本能という言葉は生物的な意味合いが強いが、仏教はじめ多くの宗教でも言われるように「生命」が「生物」だけに還元されるわけではないという立場が正しいのであれば、物理的に備わる機能としての本能ではなく、生物個体とはまったく異なるエネルギーとしての心というものが世界の認識を決めているという別の可能性についてはどう考えるのかということを進化生態学の泰斗についつい尋ねてみたかったのだ。
 岸先生のお答えとしてはこれまでのご講演と議論を聞いていたので予想していたような一貫したお考えからだったし、たとえそれが自分の考えとは違う角度ではあっても、一つの見方として受け止めさせて頂いた。
 冒頭に岸先生が仰られていた科学的知識と神話的知識は融合でも矛盾でもなく二元共存できるという話をそのまま体現されていたことに先生の生き方の一貫性を感じたが、その一方で自分はどうすると問いかけられている気がした。ともかく刺激的なシンポジウムを拝聴出来て、粂川先生のおかげで最後に自分も少しだけコミット出来たことで自分ごとになる機会を頂いた。心より感謝。

●11月7日/7th Nov
11月19日に大阪の中之島図書館で話させて頂きます。主催は総合デザイナー協会で、「未来テらす」という枠組みの初回になるようです。今回ご準備頂いている武藤さんの投稿をシェアさせて頂きます。関西近辺で僕の話をお聞きになったことがない方は是非この機会にどうぞよろしくお願いします。

●11月8日/8th Nov
今夜は満月で皆既月蝕です。ポッドキャストで配信中の「まなざしの革命放送」がアップされましたので、月見のお供に是非どうぞ。今日はアートの話です。

まなざしの革命放送シーズン2
Vol.027 この時代にアーティストは何を考えているのか
満月の今夜は、現代アートの現状と社会での役割について、少し思うところを話してみようと思います。今月の22日に岡山の現代アートの芸術祭でパフォーマンスをすることもあり、会場視察に行った際に聞いた話をもとに、この時代においてアーティストが何を考えているのかについて自分なりに考えてみたいと思います。また現代アートを中心に作品を鑑賞したレポートをハナムラのウェブサイトで公開していますので、そちらもまたご覧ください。

●11月9日/9th Nov
 久しぶりに古巣の専門領域の研究者と話していて、時代が進んでも未だに認識がアップデートされていないことに驚いたし、少々歯痒い感覚を覚えた。元々の自分の学問分野は、まちづくりや地域活性化のようなこともする領域ではあったが、周囲の盛り上がりを横目に、ある時期から僕自身は全くリアリティを感じられずに早々と離れてしまった。

 都会からやってきた専門家が、その地域で静かに暮らしている人々に、これではダメだと焚き付けて、問題でもないことを解決しようと動き回る。だがその地域に身をうずめるつもりもなく、助成金が切れれば早々に去っていく。本当の問題は残ったままだが綺麗な話で覆い隠されている。
 その様子に違和感はずっとあったので、より自分の内面やアイデンティティと向き合い格闘するアートの領域にリアリティを感じて覗いてみたものの、今度はアートでも同じようなことが起こっていた。都会から来たプロデューサーのような人が地域に上からセンスを押し付けて、結局そこには何も残らずに仕掛けた人の実績だけが残るという同じような構図になっているように思えた。

全てがそういう事例ではないが、その活性化は本当に必要なのだろうかと疑問に思うことは多かった。いい話だけが演出され、都合の悪い話は伏せられると、若い人たちの中には憧れてその領域へと進む人が増える。そして実態を知って去っていくことも多い。地域に残るのは喪失感と懐疑心だけだ。
 そんなことがブームのように繰り返されると注意深くならねばとは思うはずだが、華々しい実績を得るためのノウハウを求める動機は若い人の間でも未だに根強いようで、結果が目的化してしまう構図はずっと残っている。そんなことを教育して何の意味があるのだろうかとふと虚しくなる。
 一方でグローバルに進行しているディストピアには気づかないままで、小さなユートピアを語ることのリアリティの無さに気づき始めている人は確実に増えている。そんな人々には活性化論はもう通用しないだろう。
 そうなると次にやってきそうなのは、今度は活性化を批判して、鎮静化だと言いながらそれもまたビジネスや実績づくりとして取り組む動きかもしれない。同じ構図があることに気づかず謙虚に内省出来なければ、舌の根が乾かぬうちそう言い出しかねないが、果たして目をつけられた地域がその真贋を見抜けるかどうか。

●11月15日/15th Nov
 11月19日、今週の土曜日にハナムラは久しぶりに大阪で講演します。中之島図書館で14:00からです。総合デザイナー協会という団体が「まなざし」の話を聞きたいということで、皆さんが企画してくれました。この2年はあまり皆さんの前でお話する機会を持てなかったので、こうした機会を頂けることに心より感謝致します。

デザイナーの皆さまに向けての話というよりは、誰にとっても今の時代において一番必要な見方の話をするつもりです。これまでハナムラの話を講演という形で聞いたことのない方は、大阪でまとまってお話する最後の機会になるかもしれないので、是非ご参加頂ければ嬉しく思います。
オンラインでもご参加頂けますが、こんな時代だからこそ直接お会いしてお話をお聞きいただければ嬉しいです。また当日の後半はどんな質問でもその場で一緒に考えてお答えしていければと思いますので、自分の中の切実な問題や漠然とした不安などなんでもぶつけてもらえれば嬉しいです。
リアル会場での残席は少なくはなってきていますが、まだ少し余裕があります。申し込みは総合デザイナー協会のウェブサイトの『「Das未来テらす」日本の未来をデザインから考える』からよろしくお願い致します。

「DAS未来テらす」❶日本の未来をデザインから考える
まなざしを変えると世界は変わる
ハナムラチカヒロ
日時:2022年11月19日 14:00-16:00
会場:大阪府立中之島図書館 多目的スペース1(本館2階)
主催:DAS総合デザイナー協会
後援:毎日新聞社

●11月19日/19th Nov
 これから中之島図書館で講演。総合デザイナー協会さんの主催、後援が毎日新聞社だという。ほぼ満員御礼でオンラインでも結構参加下さっていて、感謝感激。筆下ろしのスライドもあるし、アーカイブ視聴は1ヶ月残るらしいので、とちらないように頑張る。

●11月20日/20th Nov
 昨日の講演の様子を主催者が投稿されていたのでシェア。僕の講演はクローズドな会になりがちな上に、聴いてくれた人が感想を呟いてくれない傾向にある。結構わかりやすく話しているつもりだが、マネージャー曰く多分情報量が多すぎるのと、考えることが多すぎて消化出来ず言葉にならないのと、言う相手を選ぶのでなかなか呟けないらしい(笑)。
 オンライン、オフライン含めて結構たくさんの方にお聴き頂いたとは思うが、言葉にしてくれる人はほんのわずかだ。だから講演があったことすら表には出ないことになりがちだが、そんな中でこうしてレポート頂けるのは嬉しい。心より感謝。

●11月21日/21st Nov
 目に見えるものだけにまなざしが向く社会が続くと、目に見えないものは存在しないと考えるか、見えるように可視化すべきだという考えになりがちだ。だから見えないものを見えないままで感知する能力が衰えてしまう。目に見えるわけではないが、確実に起こっている何かをどこまで人は感じ取れるのか。その実験でもある。

●11月21日/21st Nov
明日の岡山芸術交流でのパフォーマンス「わたしと居た時間はほんのわずかかもしれないけれど」の準備が終了。全く大したことをするわけではないが、今回はリクリットの作品とのコラボなので、英語のインストラクションも付けたりしていると、準備にすごく時間がかかってしまった。
 今日ここまで準備できたら、明日、僕は出来事が起こるのを待つだけ。誰も何もしない可能性はあるが、それはそれで楽しみ。ライブ配信するけどおそらくあまりに何も起こらないので、多分5分で飽きてしまうだろうなと。

●11月22日/22nd Nov
岡山芸術交流のメイン会場の旧内山下小学校にて。ゲルト・ロビンスの作品の下でリクリットのレシピのカレーが食べれるという。今回の芸術祭でテーマにされているのは「関係性」で、だからずっと関係性の美学を追求してきたリクリット・ティラヴーニャがディレクターに起用されている部分もある。
 この人々の関係性が引き裂かれたコロナ時代において、関係性を再び結ぶために何を表現するのか。僕自身も14:00からのパフォーマンス作品で微力ながら参加してみようと思う。このFacebook上で一応配信しますが、何も起こらないのであまり期待せずにチラリと覗いてみてください。

●11月22日/22nd Nov
岡山芸術交流2022のOil Drum Stageでのパフォーマンス「わたしと居た時間はほんのわずかかもしれないけれど」が無事に終了。何も起こらないかもしれないと思いつつ準備したが、結果2時間半の間に本当に色んなことが起こった。
 この作品は参加しないと意味不明なので、ライブ配信だと何のことかさっぱり分からないと思うが、参加方法は二つ。①声を出さない方法と②声を出す方法。①はステージ上の座布団に座って心だけで会話する。②はステージ下のブースにある手紙を読んで糸電話で告白する。
 
 このステージを作ったタイのアーティストのリクリットは人々の関係性を紡ぐことにフォーカスした作家で、このステージも市民が自由に何かを表現できる場として設けられた。今回は岡山でライブハウスを運営する能勢伊勢雄さんのブッキングで多くの市民が毎日ここで何かを表現するプログラムが組まれている。
 そしてプログラムが入っていない時間帯でもマイクが用意されていて、ステージに上がって声を出して自由に何かを表現することが担保されている。この自主規制の社会とコロナ禍の人々の分断が進む中で、そうやって市民が表現すること自体が社会を変革する社会彫刻になりうるという強いメッセージがある。

一方で、人に語りかけるほど強い何かがあるわけでもなく、その勇気も持てない人たちもたくさんいる。だがそんな人々も、本当は思っていても人前で言うのがはばかられるので言えないことや、誰かに話してしまいたいけど、誰にも話せないような秘密など、表現できずに呑んでしまう想いを沢山抱えている。
 うまく言葉にもならないことであっても、整理がついていなくても、自分の想いを匿名の誰かに聞いてもらえるだけで随分と楽になることがある。僕はこれまでの自分の作品ではそれを手紙で書いてもらって別の人が受け取るという表現を通してコロナ前からインスタレーションの中で試みてきたので、それはよく理解しているのだ。
 ましてや今こんな時代だ。言いたくても言えないようなことばかりで、誰もが何かを我慢しているだろう。だから今回はこのステージでも告白できる場を生み出す試みを試してみることにした。しかもこれまでのような手紙という残る形ではなく、意識と声で表現してもらい僕の中に残してもらう形で。

人と人との関係性を紡ぐのに言葉が邪魔になることがある。コミュニケーションのフリをした単なる情報交換が溢れる中で、言葉を使わず顔も見えないけど、共に同じ場に居るだけで心が通い合うのか。そんな問いかけと試みを①の声を出さない方法では試みてみた。
 そこで一緒に座った人はそれぞれ違う体験をしたことだろう。中には不思議な体験をした人もいるだろうし、心の力に気づいた人も居るかもしれない。僕らが考えている以上に身体や心は様々なものを感受している。それを僕と一緒に座ることで少しだけ開かれたのではないかと思う。

②はもう少しダイレクトに声を出す方法で、アクリル板に囲まれた中で糸電話で僕の耳に直接語りかけることができる。僕は誰が話しているのか顔が見えないし、糸電話だと声も変換されるので本人が誰かは特定できない。だから話す方は自分が誰か悟られることなく話すことができる。
 匿名の人が暴力的に言葉を放ち、それがSNSで拡散していく社会の中で、匿名であっても一対一のコミュニケーションの中で紡がれる関係性を考えてみたかった。これまで誰にも言えなかったこと、これからも死ぬまで誰にも話さないであろうこと、本当は思っているけど人前では言えないようなこと。
 人にはそうやって呑んでいる想いがたくさんあるが、それは人生の終わりと共に消えてしまう。だが、その前にたった1人でもそれを受け止める人が居るならば、その人の中で自分の想いは生き続けるのだ。人は機会が与えられて条件が整えば、何かを告白したいと思っている。
僕からの手紙にはそれを促すようなメッセージを込めたが、結果それを読んでここで何かを告白した人たちはこの二時間半の間に大勢現れた。そこで話されたことが何だったのかは僕だけしか知らない。それぞれ年齢も性別も生い立ちも様々だが、中には壮絶な話もあったし、本当に辛いものもあった。だが僕はそれを自分の人生の終わりまで胸に抱えておくことになる。

この人間関係がズタズタに引き裂かれてしまっている社会の中で、こんなアナログで小さな試みをすることなど大海の水を掻き出すようなことかもしれない。だが、こんな時代だからこそもう一度一対一から始める関係を問い直さないといけないのではないか。この告白シリーズは今回で三部作が終わるが、またどこかでまとめて話す機会が来るかもしれないが、ひとまず終了。

●11月22日/22nd Nov
今日の岡山芸術交流でのパフォーマンス「わたしと居た時間はほんのわずかかもしれないけれど」に参加して下さった方が感想上げられたようなのでシェアする。心より感謝。

●11月23日/23rd Nov
岡山芸術交流の展示を見ていなかったので、一通り会場を回って展示を鑑賞する。ここのところコロナ禍の中で現代アートの芸術祭はとんと見ていなかったのだが、今回感じたのはもはや、こうしたフォーマットではもうチカラを持たないであろうことだ。
 現代アートという表現がチカラをを持たないわけではないとは思うし、時代を敏感に感じて表現するチカラのある作家は生まれてくるはずなのだが、それを見出すキュレーターのまなざしや、芸術祭というフレームがもはや疲弊して機能していないように思えた。
 今や現実の世界の方がアートの描き出す世界を遥かに凌駕している。その中で主催者も、選ばれている作家も、完全に時代を読み違えている感が否めない。いわゆる"普通の市民"の中で、遥かに感性鋭く時代を読んで表現出来る人が大勢いるのだが、プロデューサーやディレクター達には見えないだろう。

●11月24日/24th Nov
今夜は新月です。ネットで音声配信中の「まなざしの革命放送」の新しいエピソードが公開されましたのでご案内します。今回は土曜日の講演で「自分らしさ」について質問されましたので、それについてその時には言わなかったことを少し掘り下げてみます。Spotifyのアプリをお持ちの方はそちらで、お持ちでない方はネットで「まなざしの革命放送」とご検索頂くとanchorというページで聞けます。

まなざしの革命放送シーズン2
Vol.028 自分らしさは必要なのか

先日の講演で頂いた質問の中に「自分らしさ」についてというものがありました。誰もが自分らしく生きれるということは社会の中で大切なこととされがちですが、それは一体どういうことを指すのでしょうか。自分らしさや個性というものが何を指すのか、そしてそれを我々はどうして目指すのかと。そんな最も身近な自分ということについて、新月の晩に少し考えてみます。

●11月25日/25th Nov
先日の講演で話したテーマの一つが「反転」だが、社会の至る所で反転が起こっていることを示した。事実を報道するのがメディアだが、今はメディアが報道したことが事実になる。市民が国家を管理するのが民主主義だが、今は国家が市民を管理している。
 学校が本当の学びの機会を奪い、医療が本当の健康を奪っている。価値あるものにお金を払うはずなのに、お金が払われるものに価値が見出される。多数派と少数派が反転し、常識と非常識が反転し、手段と目的が、そして結果と原因が反転し、今や世界は矛盾だらけだ。
 動物保護と言いながら食産業はますます拡大し、環境保護と言いながら裏では巨大なビジネスが動く。小さなゴミ問題は指摘されるが、大きなゴミ問題はフォーカスされない。子供に平和が大事だと教えながら、大人は戦争を繰り返す。

「革命」とは中国語の意味も英語のRevolutionも、どちらもグルリと回ってあらたまるという意味がある。この矛盾が噴き出す状況は、ある意味で革命的な状況であり、反転を元に戻そうとするチカラが働くだろう。だがその時には大きな暴力が吹き荒れる。そしてこれからさらに誰もが自らの正当性を掲げて、ますます大きな分断が生まれる。だから社会に革命を起こすのではなく、自らのまなざしに革命を起こすことを呼びかけてはいるのだが、それが我々には一番難しいことである。自分は大丈夫だと最初から思う人はなおさらだろう。

●11月29日/29th Nov
良識ある大人は陰謀論だと冷笑していればいいのかも知れないが、その結果として子供達に選択肢が無くなる可能性まで想像出来ているのかどうか。「まなざしの革命」で書き尽くしたので今更声高に言うつもりもないが、リアルに思える頃にはもう引き返せないだろうなと。

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