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白い猫と妻の失踪21、エリック 聖堂灯台 2022

 灯台守りが住んでいたという灯台を訪れてみたいと、少し前から思っていた。聖堂が灯台の中にあるのは、世界でもここだけ、と言っていた気がする。ジュマン灯台は小さな岩礁の上に、7年もの歳月を掛けて建てられたそうだ。
天気の良い、ある平日の朝突然「今日は、ジュマン灯台に行ってみようかな。」と思った。こんな風に、直感に従うことの大切さを、私は最近痛感している。思ったことは、その瞬間にやってみたほうがいい。一見、何の意味もないように見えて、それはとても重要な意味があることも多い。気分に合わせて行動していると、単純にとても気持ちよく行動できた。

 私が日本に行ったことと、妻の帰宅は全く関係がない。でも、どこかで、私は自分の直感に従い、好きなように行動したことで、妻が家に帰ってきたような気さえしていた。もちろん、そんなことあるわけないじゃないか。と言われれば、そうかもしれない。でもある意味で、自分の生活の中で、一見関係のない小さな思いつきや好みを心から楽しんでいると、いろんなことは好転していく可能性が高くなる。と、どこかで信じているようなところがあった。妻のことはあまりにも変わった体験なので、なんとも言えないけれど。少なくとも、特殊な状況で生き延びることができたのは、自分の生活を自分の思うように続けるという気概のようなものがあったからだろうと思う。
絵を描く上では、この自分の勘を大事にすることは、とても重要な要素だ。

「絵の題材になる写真を撮りに日帰りで、ブルターニュに行こうと思う。綺麗な灯台があるらしいんだ。一緒に来るかい?」と妻に聞いてみた。

「今日は、そういう気分じゃないわ。午前中は、少しゆっくりしてから掃除と仕事をして、午後はオレンジのタルトを焼くつもり。夕食は、チキンをル・クルーゼのココットで煮込むから、相当豪華よ!」

「それに、その前に、アンジェリック達とランチに行くの。先週から別荘に来ているんですって。サン・ジョン・ル・トマの近くの、ノール・モン。ほら、あのランチが豪華で、いつも食べきれないほどたくさん出てくるお店!久しぶりにひたすらおしゃべりして、たくさん食べましょうって、言っているのよ。」
「そうかそうか。それは楽しそうだ。是非、ゆっくりしてくるといい。」
 女性は本当に友人とよくしゃべる。きっとストレス発散になるのだろう。その絆の強さは、羨ましいような気持ちになるほどだ。友人と話すのは、気分も変わって体調にも良いだろう。心から楽しいことをどんどんしていれば、きっと良い影響がありそうだ。医者からも、とにかく気を楽にして、楽しいことをしてくださいと言われている。

 灯台まではだいぶ距離があった。1時間以上音楽をかけながら海辺を車で走るのは、良い気分転換になった。いつものピアノコンチェルトや、ビートルズ、ジャズなどいろいろな曲を適当にかけた。時々ラジオにして、知っている歌がかかると、大声で歌ってみたりもした。普段はほとんど歌ったことなどないので、自分でもそんな気分になったことに驚いていた。大声で歌ってみたいほどに良い気分だったのだ。

 来週は、妻と一緒にダンスのレッスンに行くことになっている。まさか、この僕がダンスを踊るなんて!誰もが一様に驚いていたけれど、何より自分が一番驚いている。体を動かすのは苦手な方で、軽い海辺のジョギングや水泳以外で、自分からスポーツをしたことはほとんどない。何でもいいから、楽しいことを一緒にやりたいという気持ちが大きくなっている。何より、彼女が喜ぶことなら、何でもやってみたかった。

 時々こんな風に、一人で自由に遠くまで移動してみると、自分はこんなことを考えていたのかと、改めて気づくことがある。
大抵はどうでもいいことだ。例えば、ああ、そういえば、最近食べていないけれど、僕は幼いころオムレツを食べるのが好きだったな。とか。そういう一見、たわいのないことだ。
旅先で一人、カフェで昼食を食べることにしたら、長い間忘れていた感覚を思い出して、大きなオムレツを食べた。隣の人が美味しそうに平らげているのを見たら、なんだか美味しそうだな。と、思ったのだ。卵料理なんて、もちろん簡単に家で作れる。わざわざ外食するほどのことではない。でも、思いついた時に、思いついたものを食べてみようと思った。つまり、私ははしゃいでいるのだ。妻が帰ってきたんだ、いくらはしゃいだっていいじゃないか!という気持ちだった。

 出会ったその日から妻とは、できるだけお互いに自由に行動するようにしていた。私は思いつきを大切してして絵を描く仕事をしているし、彼女は思いついた時に思った通りに行動することで、仕事をこなすジャーナリストだ。だからこそ、彼女がいなくなったこと自体は、それほど大きな驚きではなかった。連絡がなかったことには、とても驚いて心配したけれど。記憶がないことを考えると、何かしらショックなことがあったのではないか。という心配はもちろんあった。でも、私がいくら心配したところで、妻の助けになるわけではない。かえって、楽観的に構えていた方が、彼女にとっては気が楽だろう。できるだけ明るく軽い雰囲気を保とうと決めていた。

 灯台に到着した。駐車場を探し、車を停めて、しばらく海辺を歩いて風にあたった。とても美しい風景だった。意外なことに、灯台の入り口には、管理人がいて、旅行者が入れるようになっていた。見学用に聖堂を改装し、今は観光客を受け入れているそうだ。10年近く灯台守りは、ここでほとんど一人きりで暮らしていたというのに。今では、毎日いろんな人がここを訪れている。おかしな話だ。

 聖堂と言っても、ただ小さな祭壇が置かれているのだとばかり思っていたのだけれど。驚いたことに、中には美しいフレスコ画や内部全体に装飾が施され、それはとても美しい建造物だった。
ちょうど人が途切れ、私は、一人きりでこの聖堂に入れた。壁で囲まれた窓のない筒のような建物の中で一人になると、まるで地上にいるのか、地中にいるのか、全くわからない。何だか時空が止まって別世界にいるような、とても不思議な感覚になった。

 怖いとか寂しいというような気持ちはない。どちらかというと、懐かしいような落ち着くような、静かな気持ちだった。

 しばらく一人で聖堂の椅子に座った。意識していなかったけれど、幼い頃からの習慣で、心の中で祈りを捧げていた。カトリック信者は、初めて訪れた聖堂で、ロザリオの祈りを唱える。そして、3つの祈りを捧げると叶うと言われている。
ふと気づくと、膝の上が少し暖かくなった。ポンポンだ。
私は思わず、微笑して、ポンポンをそっと撫でた。そして、しばらく静かに過ごした。

 「奥さん、帰ってきたんだよ。気が付いたら、グランヴィルの灯台の前にいたんだってさ。今僕は、たまらなく幸せなんだ。君も元気にしていたかい?」
「グルルル」と喉を鳴らしてポンポンは最初猫らしい声を出した。

「でも奥さんには記憶がないんだ。どうしていたんだろうね。本人も何も覚えていないらしいんだ。でも、元気にしているよ。」
「きっと、どこか別の世界に行っていたんじゃないかな。」

「へえ。今日は話してくれるんだ。久しぶりじゃないか。別の世界ってどんなところだい?外国?それとも日本の童話に出てくる竜宮城みたいなところかい?」
「うーん。きっと、とてもこの世界に似ているけど、少しづつ違っている、そんな世界じゃないかな。」

「そこは楽しい世界なのかい?」
「それは、その人が選んだ世界によるさ。自分でなんでも選べるんだから。」

「普段は君はどこにいるんだい?」
「いろんな世界を行き来していると言ったら、わかりやすいかな。まあ、世界中の灯台は海を通して、繋がっているからね。場所も時間も自由に旅できる。というわけさ。だいたい、皆んな覚えていないだけで、夢の中では、しょっちゅういろんな世界を行ったり来たりしているんだよ。」
そう言い残すと、ポンポンはいつの間にか消えてしまった。でも、なんとなく、膝の上と手の平にはいつまでも暖かい感覚があった。

 少しして、時計を見るとずいぶん長い時間が経っていた。どうやら、少し眠ってしまったらしい。
夢の中で、ポンポンに会った。ずいぶんお喋りしたような気がする。そして、どうも日本の灯台の夢を見ていたようだった。あの江ノ島の白く大きな近代的な灯台だ。あの灯台の展望台で妻が、夕日を眺めていた。そして、あの江ノ島の喫茶店のカウンターで妻は紅茶を飲んでいる。その横に果穂さんが座ってケーキを食べている。そんなリアルな夢だった。
 
 



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眠れない夜に

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