見出し画像

病気との闘い①~病気発症まで~

私について

4人兄弟の末っ子の私は小さい頃から好奇心旺盛、一度好きになるとどこまででもやるという、良く言えばアクティブ、普通の人から見ると無鉄砲な感じだったかもしれません。
両親は共働きで忙しい日々を送っていました。


競技スキーとの出会い

私が小学校4年生の秋に私の街周辺のこどもをターゲットにしたスキークラブが発足しました。
もともと滑ることはできましたが、こどもながらに“縁”を感じ、両親に入りたいと懇願したのを覚えています。
両親は入会することは許してくれましたが、その条件が送り迎えはできないことでした。
私の心は大好きなスキーを前に弾んでいました。

そのスキークラブは入ってから分かったのですが、ただのスキーではなく「競技スキー」でした。
競技スキーとは赤や青い旗、ポールの間を滑っていくもので、練習はスピードを出すため練習はスキー場のオープンと同時つまり早朝、7時のオープンにはもう滑り出さなくてはいけませんでした。

さすがにどの親御さんも毎週の土日に早起きして送っていくのは大変だったようで、近くの駅(歩いて15分くらい)に集合し、ジャンボタクシーを使うことになりました。
それにしても集合は朝6時
私は練習の度に5時に起き、朝食を作り、スキー板2組とブーツ、貴重品のリュックを背負って駅まで歩いていきました。
確かに競技用の板は重く大変でしたが、「行きたくない」と思ったことは一度もありませんでした。

苦労が実った時、そしてスポーツ三昧

中学生になってから私はスキーで県の選抜メンバーに選ばれました。
山梨県に競技人口が少なかったからだと思いますが、これは私にとってはとてもとても嬉しいニュースでした。

中学校時代は部活動はバレーボール部に入部しました。
バレー部では私は控えでしたが、朝練、放課後の練習の他に土日には練習試合がみっちり入っていました。

また陸上部がなかったため「季節部」として私も110mハードル、砲丸投げ、走り幅跳びの3種混合の選手として駆り出されていました。

そして冬になると、バレー部の練習が終わった後コーチにナイター練習に毎晩と言っていい程、連れて行ってもらっていました。
3年生の総体の県大会が終わり引退になるまでスポーツ三昧の生活でした。

スキー夏合宿に行くはずが...

今でも忘れない中学3年の夏休み
私は3年生の冬にもスキーの大会に出るつもり満々でした。
しかし、「その時」は着々と近づいていました。
ある朝私は突然両ひざの激痛で歩くこともままならなくなりました。
その時から私の怪我なのか?病気なのか?精神的な問題なのか?分からない長く厳しい闘いがはじまりました。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きは後日...

つたない記事ですが、サポートしていただくと俄然やる気が出ます!!🙂🎶 私の"やる気スイッチ"も入りますので、あなたの心に響いたらぜひよろしくお願いします。