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エッセイの意義

 他人の本音を完全に知るのは不可能だと思っていて、それでも少しだけその不可能に近づくことができる手段がエッセイを読むことだと思っている。

 私が書いたエッセイが100%本音なのかというと、それは言い切れない。公開してない本音の方が多いし、言葉だって選ぶ。
 でも一番は自分のために、そしてついでに誰でもないネット上の全世界の人間に向けて書いた言葉なのだから、それらは多分、自分の脳より外に出す言葉の中で最も私の本心に近いと思っている。

 会社で振る舞っている自分よりも、知り合いと会話している自分よりも、建前の少ない自分が現れているのがnoteに投稿しているエッセイ達なのだと思っている。

 読書は好きだが読む本が偏っている。多分、エッセイを一番読んでいる。最近は「最後の秘境 東京藝大」というインタビューエッセイを読んでいて、とても楽しい。

 ある人の本音を他人が知ることはほぼ不可能だと思っているし、正直に言うと、人が私に話してくれたことを本音だとはあまり信じないようにしている。
 きっと、私がそうではないからだ。私が「相手にとっての最適解」ばかりを考えて喋っているから、人のことも信じきれないのだ。

 だから世の中のエッセイ(インタビュー形式も含む)で、他人の「本音に近いもの」を知ることは楽しい。
「普段はこんな言動で生きているけれど、本当はこう思っているのに」という本心と現実のギャップなんかも見れると尚嬉しい。ああ、この人にエッセイという手段があって良かった。赤の他人の私にその隠している本心を打ち明けてくれてありがとう、と思う。

 もし筆者(話者)と私が知り合いだったらむしろ私には見せてくれないかもしれない。私に見せるべき「仕事相手としての顔」「接客する時の顔」「先輩としての顔」「友達としての顔」しか、私には見せたがらないかもしれない。
 なのに、そのどれでもない「本音に近いもの」を、私が読んでいるとも知らず曝け出してくれるだなんて。こんな奇跡が他にあるだろうか。

 だから私はエッセイを書きたいし、読みたいのだと思う。

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