哲学対話「ドジ」の開催レポート
毎月、平日と休日にオンライン哲学対話を実施しています。4月18日(木)に実施した際の様子をレポートします。
哲学対話とは「普段はあらためて考えない疑問」、「すぐには答えが見つからなそうな疑問」について、みんなで語りあって思考を深めていく場です。68回目となる今回のテーマは「ドジ」で、参加者は12名でした。
※以下、当日出た意見を、個人が特定されない範囲で紹介します。個人の具体的な体験などは省略した他、進行役の解釈・編集が避けられないことをご了承ください。またメモを見返して意味がよくわからない部分は省略しています。
チェックイン+哲学対話について
最初にみなさんから今の気分や体調を簡単に一言ずつお話していただきました。簡単にでも早い段階で声を出していただくことで、その後の発言のしやすさに繋がればと思って毎回やっています。
その後進行役から、哲学対話についての簡単な説明や、充実した対話になるために意識したいことをお伝えしました。
問い出し&問い決め
今回「ドジ」というテーマを設定した理由を、進行役から簡単にお伝えしました。
進行役自身もこれまで、テストでうっかり記入ミスをしてしまう、電車を乗り過ごす、逆方向の電車に乗ってしまう、忘れ物が多い、スケジュールに入れても予定を忘れるなど、たくさんのドジをしているのですが、どうしてそれをドジと呼ぶのか、ドジってそもそもなんなのか、いろんな人の意見を聴いて考えたいと思い「ドジ」というテーマを設定しました。
その後、参加者のみなさんから、ドジというテーマをどんな切り口から考えてみたいか、問いの形で出していただきました。
なぜその問いで考えたいと思ったか、それぞれの問いの背景も話していただき、それをふまえて、考えたいことが似ている問いは一緒にする時間を取りました。最終的に投票で「ドジとは何か?」に決まり、ここでいったん短い休憩をはさみました。
問いについての対話
・何気なくドジという言葉を使うけれど、改めて考えると自分のなかで定義があいまいだなと思った。問い出しの際にドジという言葉にいいイメージを持っている人もいれば、悪いイメージを持っている人もいた。それぞれどんなイメージを持っているか伺いたい。
・ドジというと「にくめない」「悪意がない」「しょうがないな」という感じがある。
・言い方次第で長所が短所になり、短所が長所になるように、捉え方、言い方次第ではないかと思うが、自分がドジという表現を使うときで考えてみると、自分に対してはいやだなと悪い意味で使っていて、他者にはフォローするような意味で使うかなと思う。
・「アホやな」「バカだね」と同じように、言い方によって言われたときにいい意味で言ってくれているのか、けなされているのかが変わってくる。
・相手に不満があるとき「バカだね」って言ってしまうときつくなるので、しょうがなく「ドジだね」と言うことがある。ある種のあきらめ、その場をやりすごすために使う。
◎そういった様々な場面でドジという表現を使うとして、私たちは何を持ってそのことをドジと見なしているのでしょうか?
・ドジというのは、気を付けていたらやらなくていいことをやってしまうこと。判断基準がないからやってしまう。能力がないわけではない。能力とドジは関係ない。判断基準をもてば同じドジはしなくなる。
・ドジとは思いこみで突っ走ること。うっかりやっちゃう、よくわからないままやっちゃうこと。
・ドジは一言でいうと人に話して笑えるかどうか。
・うっかりやってしまうというのがドジというのもわかるけど、考えに考えても間違えることもある。できたはずなのにできなかったことがドジ。
・例えば電車に乗り間違えて大事な会合に遅刻したときに、ドジだねで済ませられる場合もあるが、ゆるされない場合もある。見方の差によって、単なるドジか、問題になるかが違ってくる。
・ドジは言ってみればケアレスミス、うっかり、不注意なので直した方がいいことだなと思う。
・前提として人は失敗はするものだと思っているけど、でもふせげたよねということもある。大事にならずに笑い合えるものがドジではないか。
・バイトでどんぶりを3つぶちまけたことがあり、どうしようもないドジと言われたことがある。気をつけているのに、気をつけるほどドジをしてしまう。もぐらたたきをしているような感覚。
・別の表現でいうと不器用とも言える。でもそこに一所懸命さや必死さがあるとにくめない。
・まったく同じことをしても、その状況、当人、何かしら迷惑や被害を被る人の捉え方、それを見ている人たちの捉え方によって、ドジなのかどうかは変わってくる。可変的。
◎まさに、同じ行動であっても、状況や人によってドジかそうでないかは変わるとしても、それでも私たちが、なんらかの行動や状況をドジだなと見なすとき、そこに何か共通するものはないでしょうか?
・共通するものは、改善していきたいということではないか。変えられるものなら変えたいということ。
・ドジという言葉に、やわらかい、丸い、笑える印象がある。例えば誰かが取り返しのつかないことをしても、その人を責めたくなかったり、自分が悪く思われたくないなどでその場を丸くしておきたいとき、ドジという言葉を使う。
・ドジには生産的/非生産的という見方が影響しているのではないか。非生産的であるべきではないという人にはドジは受け入れられないし、非生産的でもよしとする価値観だったら受け入れられる。
・そうするとドジは余裕のある世界でしか受け入れてもらえないのかもしれない。
・ドジという言葉には、誰にでも起こりうること、あり得ること、日常生活レベルのことというニュアンスを感じる。
・ドジというのは、マインドレスな状態のことで、深刻さをやわらげるときに使う表現ではないか。
・誰にでもあり得るという共感的なドジもあるけど、天然とか不思議系のドジは、そこにズレがあるから笑えるという面もあるんじゃないか。何か誤作動するような感じ。
・自分もドジという自覚があるけど、バカと言われるときついけど、やり方知らないんだねと受け止めてもらっているなと思う。
・ドジという言葉の背景には、ストーリー性やキャラクターが見え隠れして、そこに人のかかわりがあるように感じる。自分は、自分ではドジだと思っているけれど、人からはまじめとか完璧主義、論理的と言われるが、ドジとは言われない。おそらくそういうキャラクターと見なされている。
・ドジにはやっぱり抜けてる側面がある。あとは集団によって同じ自分への見方や印象が変わっている気がする。その集団にどれだけ自分を開示するかによって変わるのかも。
2時間の対話を終えて
今回の対話のなかでは、ドジとは何か?を探求するプロセスのなかで、ミス、ケアレスミス、うっかり、不注意、不器用、失敗と似ている概念であることが見えてきましたが、それらのなかでドジの特徴としては「笑える」という点が1つ言えるのではないかと思いました。
また、問いもいろいろに派生していきました。
ドジは行為の結果のことを言うのか、人の性質なのか。
性質だとしたらもともとの性質なのか、直すことはできるのか。
笑えるドジと笑えない失敗の境界はどのあたりにあるのか。
集中していないからドジをするのか、集中しすぎるからドジをするのか。
ドジは本当に悪いことなのか。
どうしてドジにかわいさや愛らしさを感じるのか。
こういった場の中で生まれてきた問いも、引き続きドジというテーマについて考える道しるべになりそうです。
放課後は、直前の哲学対話についてみなさんから質問や感想ををいただきながらメタダイアローグをしました。今回の哲学対話は初めて参加する方が半分近くいらっしゃいましたが、なごやかに一緒に考えることができたかなと思います。ご参加のみなさま、ありがとうございました。
今後の開催予定
4月28日(日)10:00~12:00、オンライン開催。テーマ「さびしい」(満席)
5月9日(木)10:00~12:00、オンライン開催。テーマ「甘え」(満席)
5月25日(土)10:00~12:00、オンライン開催。テーマ「むずかしい」
6月6日(木)10:00~12:00、オンライン開催。テーマ「責任」
最新の開催情報は下記Peatixページに掲載しています。
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