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「書き始める前に、何が起こっているのか?」~うろうろした体験をふりかえってみる~

今日の午前中はまるネコ堂の文章筋トレに参加。4回目。
3人で、10分と50分の2本を書く。

今日は何も考えていなくて、10分の方は「今日何も考えていない」と書き始めたが、それを消し、先日から頭の中をぐるぐるしていることをいったん吐きだした。

50分の方は、時間内に書ききれる感じがしなかったので、素材(キーワード)を出すつもりで書いていった。これがあれば料理ができるというか、文章を組み立てていける、というものが出せたと思う。

さらに、その文章というか、素材に対してもらったコメントがおもしろかった。「映画の予告編みたいで、つながりは必ずしもわからないが、終わった感はある。興味がある人は本編を、という感じ」と。そんなつもりはなかったが、言われてみればまさにそうだ。ツボをついていて、笑ってしまった。

文章筋トレは、毎回読むほうでも、発見がある。
誰かの書いた文章を読んで自分に起こる反応によって、「そういう伝わり方があるのか」という発見がある。そして自分の反応によって、「自分はそんなことを思っていたのか」ということにも気づく。他の人がどう読んだかを聞いて、「そういうとらえ方もあるのか」と目がひらく。読んでいる時間は、これまで行ったことのない道を進むような、小さな冒険、小さな旅の感覚がある。

とはいえ、

「カニは甲羅に似せて穴を掘る」。
ことばは、自分の既知に合わせたわかり方をする。

と、外山滋比古氏も言っているように、今の発見は、あくまでも、今の自分の既知のレベル(自分の甲羅の大きさ)での発見でしかない、ということは常に肝に銘じておきたい。

さて。ここからは書きかけの下書きを、サルベージしていこう。

書くにまつわる対話

2週間前の文章筋トレで、「書く」にまつわる話をした。
記憶が埋もれてしまわないうちに、もう少し詳しく思い出そうと思う。
自分でも、結局何が言いたかったのか、よく整理できていなかったから。

大谷さんの話を、私の理解で書くと、こんな感じだ。

「書いている」ときにはもう問題ないっていうか、「書けている」状態に入りさえすればもう大丈夫。それは書き終わったようなものだ。
その前の、「書いていない」、「書けない」という時間も、動作として書いているわけではないが、実は重要な「書く」の一部なんだ。

たしかにそう、と思った。ただ、私はそのとき何かが引っかかった。引っかかったことを説明しようとするが、うまく言えなかった。

例えば、仕事で、何かの原稿を書き終わるのに、着手してから全部で30時間かかったとする。でも、実際に書いていたのは1割の3時間くらいで、残りの9割、27時間は、ほとんどが「うだうだ、だらだら、うろうろしている、かなり無駄な時間」のような気がする。そこにもっと手を入れて効率的に、27時間から少しでも減らすことができるのじゃないか?ということを思ったのだ。

おそらく「書き始まる」までのアイドルタイムが、ルーティーン化、手順化されていないので、毎回「書いている」状態になるまでの時間を相当にロスしているんじゃないか、ということが問題意識としてあったのだろう。

ただ、「書き始まるまでに何をしているのか」についても、そのときの状況や取り組んでいるモノによって、大きく異なる気がする。そこで、「なかなか書き始められないなあ」と思ったときのことを思い出し、そのとき何をやっていたのかをふりかえってみたい。

不慣れなので、うろうろする

前々職の仕事で、自動車の取扱説明書を書いていた。特に、英文のライティングには時間がかかった。

説明書・マニュアルの類の文章は、誰が読んでも同じ意味にとれなくてはいけない。人によって違う意味に捉えていたら、マニュアルの意味がない。さらに、自動車は、命に関わることもある。間違いがあっては「絶対に」いけないので、過去に多くの人の手と目を経てマニュアル化された文章をベースに書くのだが、自動車の機能の進化は早い。年々新しい機能が増えていくので、文章の形式は踏襲しつつ、新規の文章を書いていく必要があった。

書く前の準備として、
・ベースの本に、追加や変更で記載しなければいけない項目の確認
・必要な情報集め(スペック、機能、操作手順、図面、実際の見た目)
・実車取材、研究者へのインタビュー

などは、工程として明らかになっているので、それらは「作業」として進められる。だが、それ以外の「なぞの時間」があった。

必要な情報がだいたい揃って(揃っていないものもわかっていて)、さてあとは書き始めるだけだ、というところでうろうろしはじめるのだ。過去の本を見る。あれも見た方がいいんじゃないか、いやあっちの車の方がいいんじゃないか。そもそも、全部の車でどういう風に書かれているか見比べてみよう。とりあえず土台となる文章を引っ張ってくる?それとも、ひとまずゼロベースで書いてあとから修正する?書いてみたけど、正しい気がしない。間違っていたらどうしよう。

全部を中継はしきれないけれど、「何かはするのだが前に進まない」という迷子になっていた時間が、結構長かったような記憶がある。試行錯誤といえば聞こえはいいが、無駄な時間に思えてしょうがなかった。

今、こうして書いて眺めてみると、その時間は準備段階の延長や素材集めのような気もするし、それを手順化すればいいだけじゃないか?という気もしてくる。だが、このときは自分の経験もまだ浅く、他の人もそれぞれの担当でほんとうに忙しくて、わからないことがあっても部分部分しか質問できなかった。経験を積んでいけばもう少し手順化をできていたのかもしれない。

テーマやリサーチクエスチョンが決まらないので、うろうろする

社会人大学院(MBA)では、どの科目も毎週のようにレポートがあった。1200字~4000字程度だ。レポートに関しては、「書けない」と思ったことはない。テーマが決められているし、調べれば何かしらは書けるからだ。自分のことを書くにしても、自分を観察すれば書ける。そして、大量のレポートを読まなくてはならない講師に読みやすいように、論点をはっきりさせ、構造的に、明解な文章を心がけて書けばよい。

だが、修士論文だけは、ちょっと勝手が違った。「書く、書けない」以前に、テーマが決まるまでにだいぶうろうろしてしまった。

本来は「組織におけるナラティブと対話」という宇田川元一先生のような研究をしたかったが、うろうろしているうちに時間が過ぎていってしまった。結局、それまでに仕事で取り組んできた「経営理念の浸透」をテーマにした。テーマが決まってからは、せっせと国会図書館に通い文献集めをして文献を読んだ。だが、浸透に関するどの部分を掘り下げるのかあいまいなまま、リサーチクエスチョンがあやふやなまま、文献を読んでいたので、必要な情報をちゃんと引っ掛かけられていなかった。ゼミがあるたびにいつも間に合わせで発表をしていた。

スイッチが入ったのは、調査のため3社の20名くらいの方々に、インタビューをさせてもらったあとだ。これだけ貴重な話を聴かせてもらい、それを無駄にするわけにはいかない、とギアがあがった。なんとか滑り込みで間に合ったのは、火事場のなんとか、だ。

翌年、次の期の院生の前で経験談を話す場をもらったのだが、失敗要因としては、全部を総括するような、壮大な論文を書こうとしてしまっていた、という話をした。そういうのは、博士論文やその先の話だ。自分の能力と持ち時間を、私はover estimateしすぎてた、と。

膨大な研究者の方々がいるフィールドの中で、自分はここの部分をもう少し掘ってみますという謙虚な姿勢と、ちゃんと全体の中で掘られているところと掘られていないところを見極める把握力のようなものが必要だった。論文の文章そのものよりも、「書き始める前の見極め」に必要な力が足りなくて、膨大な時間がかかってしまった。

指導教官によっては、そこの「見極め」を結構具体的に教えてくれる人もいるのかもしれない(聞くところによると、そういうゼミもあったらしい)。だが、「研究は自分でするもの」だ。そこは自分が見極めていかなくてはいけない。そういう見極めをできる力をつけるためにも、うろうろは必要な時間だったのかもしれない。

わからないまま、うろうろ書き続ける

一昨年は、いろいろなコースに通い、クリエイティブ作品をつくることに挑戦した。写真表現、映像表現、エッセイ、小説、戯曲。

そのなかでも、ある賞に応募するために、どれだけ時間がかかっても書くと決めて「短編小説」に取りかかった。取材にもいったし、書くために相当時間をかけたのだが、一次選考にも引っかからなかった。

このときは何に時間がかかったか、というと、ストーリーの流れというか「うねり」が作れなかった。この登場人物たちはどうしたいのか。過去どうしたかったのか。これからどこに向かっていくのか。どこからやってきたのか。それがうねっていかないというか。細かい部分を書いていくことはできても、なぜそのストーリーとして表されなくてはいけないのか、それが自分でよくわからなかった。
(今こういうふうに書いているけど、自分のわからなさをこの言い方で言えているかどうかもわからない)

普通に考えると、時間とお金とエネルギーを使って何をやってんだという話なんだが、だいぶ時間が経って、自分の書いたものを読み直してみると、そりゃそうだなあと思う。このときは、取材のときに印象に残った光景を作品の中のシーンとして使うために、ストーリーを組み立てた。そんな都合のよい話はない。だから設定に無理があったのかもしれないし、何より描写する筆力が足りなかった(今も足りないままだ笑)。

今のところは、無駄な経験と言えなくもないが、とにかく1つの作品を「最後まで書き切る」という体験にはなった。書き始めから、書き終わりまで何が起こるのか、一通りの経験ができた。それでやめてしまえば、その体験は無駄におわるかもしれない。でも、やめなければ一つの経験、途中経過に過ぎないし、経験値として残る。

その後も書きかけのままの作品がいくつもあるが、今、改めて振り返ってみて、「うねり」というのが自分のなかのキーワードとして出てきたので、その「うねり」についてもう少し考えた上で(感じながら?)、書き進めてみたい。

ひとつこの経験の良い面としては、書くことの難しさとか、思うように書けない感じを味わっておくと、人の作品をもっと味わえるようになるということだ。さらっと書いてあるように見えて、本当によく練られた文章だなあ、ということに、気づけるようになっていく。読むと書くは表裏なのだ、と本当に思う。

これ以外に、noteでの「書けない」もあるが、これはこれまで何度か書いてきたので、省略。

いずれにしても、3つの、「書けている」状態の前にうろうろした体験に共通しているのは、「不慣れである」ということだ。自分なりのペースなり向き合い方なりをつかんでいない状態だった、ということだろう。これは続けていくこと、経験を重ねていくことで、何かしらをつかみ、アイドルタイムは減っていくと考えられる。

では、長く続けてきた(いる)その他の「書く」については、どうだろうか。

量をこなすことで、センサーが作られる

メインの仕事の1つとして、様々な企業で働く人の、アンケートや作文、インタビューなどからエピソードを集め、テキストムービーをつくるということをやっている。かれこれ11年になる。

これは、元ネタがあるので、ゼロから自分で作るというわけではない。生の素材を、伝わりやすく、見る人がその状況と心情をイメージをしやすいように、リライト・編集する。

最初の頃は、誰かが書いた長い文章から、どこを残して見せていくかというところで、苦労をした。さらに、いいエピソードなんだけど、決定的に何かが足りないと思うようなとき、その「足りない何か」を追加でインタビューをするか、想像で補うか、をして完成させる。

あまりに短く削りすぎると、細かな情報が消え、何を言いたいのかわからなくなるし、あれこれ説明しすぎると、冗長で見てもらえなくなる。

ボディーコピーを書くような感じに近かった。1文字も無駄な文字が入らないように何十回、何百回と読み直して削る。文のリズムが大事なので、何度も音読をして、読み上げにくいところ、ひっかかるところがあると、なめらかにリズムよく読めるように、直す。これは理屈があるわけじゃないので(あるのかもしれないが)、感覚的にしっくりするまで直し続けた。

これはまあまあ長い時間やってきたので、ある程度の身体知というか、ルーティーンができてきていて、「うろうろして書けない」という時間は、大分減らすことができている。かかる時間も見積もれるようになっているような気がする。もちろん、クライアントにもよるのだけれど、一番最近の仕事はほとんどうろうろせず、結構すんなり納品にたどりついた。

これは、とにかく「慣れ」だろう。大量に人の文章を読みながら、ピンとくるところを抽出する。それを編集したものをクライアントに見せて、フィードバックをもらう。そういうことを何百回とやっているうちに、独自のセンサーが出来ていたのだ。おそらく。

これからさらに展開させていくとしたら、、、。
それを考えるのは、仕事の話になるので、また別の機会にしよう。今日は「書くが始まるまで」の話だ。

やりながら考えていく

前職も含め、一番長くやっていることが、イベントの告知文、メールマガジンにおける「書く」かもしれない。これも10年以上書いているが、最初はかなりうろうろしていた。今でも決して、得意ではない。もう少し、人に読んでもらうための工夫が必要だ。テコ入れをしなければいけないと、ずっと思っている。

あまりテコ入れしてこなかったのは、文章をいくら整えても、土台や根っこの部分が脆弱だと、それは人を騙すことになるんじゃないかという危惧があったから。中身のほうが大事じゃないか、と。

それもたんなる言い訳かもしれない。本当に中身に自信があったら、もっとちゃんとまっすぐに、受け手に届く書き方を、死に物狂いで考えるはずだ。ここはもっと腰を据えて、考えていきたいところだ。一番大切な「中身」の「価値」をどう伝えるか。どうやってそれを求めている人にリーチするか。

今後もやりながら考えていくところだし、noteでやっている書くための筋トレが、基礎体力として役に立つと思っている。たくさん休んだので、そろそろまた動き出さないといけない。

結局、うろうろしながら何をやっているか

ここまで「書けなくてうろうろした」体験と、そこまで「うろうろせずに書けている」体験をふりかえったが、「書く」にも種類はあるものの、結局は「慣れや量」が、それなりの「型・作法」になっていくのではないか、というところに辿り着く。

そして、「書き始める」前の時間は、大きな塊を、とにかく小さく小さく分割することをもっと意識したらいいように思った。同じうろうろするにしても、広大な土地をうろうろするのではなく、狭い範囲でうろうろするのだ。すると、その狭い範囲を把握できて、次のまた狭い範囲にうろうろしにいける。これは、「書くうんぬん」というより、仕事のやり方の話かもしれないが。

ただ、改めて思うのは、書き始める前の「うだうだ、だらだら、うろうろしている、かなり無駄に思える時間」は、ずっとその「書く対象」のことを考えている時間でもあるということだ。どうやってつきあっていくか。どう関係を持っていくか。

そこで気づくことも、あるかもしれない。その対象とちゃんと向き合えるまでに、それだけの時間が必要なのかもしれない。そう考えると、うろうろする時間というのは、対象との関係を作っていく大事な時間で、もしかしたらそこで関係をつくったからこそ、書き上げることができているのかもしれない。

まだ、よくわからない。

「。」をつけて、その先へ

今日のこの文章も、いちおうUPする時点での「完了」と思ってUPするけれど、実際のところは今日の時点での、途中経過にすぎない。ちょっと経って読み直したときに、「なんかグダグダと、バカなこと言ってるな」と思うかもしれない。だが、いったん完了の「。」をつけることで、そのかたまりが占めていた自分のなかのスペースが空く。そこに次の何かが浮かんでくる、ということを、私は信じている。

最近は言語学の本を読んでいる。なんだかますます書きにくさを感じるようになった。使う言葉を意識しすぎて、書くハードルが上がっている。

おそらく、書くことに慣れ、上達するほど、書くことがラクになるわけではないんじゃないか。より険しく、難しくなっていくのではないか。

その分、書きながらの手応えが増したり、書けたあとに、これまで見たことのない景色が、見えたりするのかもしれない。そんなことはないかもしれない。

まだまだわからないことだらけだ。
だが、そんなわからないことが、昨日よりはわかった、今日だった。

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