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『本を読むときに何が起きているのか?』を読んで(ピーター・メンデルサンド著)

ペーパーバックのような紙質と分厚さ。ページをめくるたびにあらわれる様々なビジュアルのしかけ。不思議でおもしろい本だった。

著者のピーター・メンデルサンドは、アメリカのブックデザイナー。数々の本のエッセンスを表すデザインを手がけてきたからこそできる実験というか、冒険の本だ。

本書のタイトル通りの疑問を私自身も持っていた。だが本書は、その問いに対してまっすぐ、論理的に答えてくれるわけではない。その構成の仕方も、おそらく「本を読むときに起きていること」を暗示しているのではないか。

本書でいう「本」とは、主に文学作品のこと。取り上げられている作品を知っていたら、もしかしたらもっと「そうそう!」とおもしろく読めていたかもしれないが、私は残念ながらほとんど読んでいなかった。それでも著者の言わんとすることは十分に伝わった。


読んでいた中で印象的だったのは、私たちは本を読みながら、くっきりと明確に登場人物や登場する場所をイメージできているわけではないということだ。それらは結構あいまいで、場合によっては穴だらけであったり、かなりぼやけていたりもするという。

たとえば一番直近で、私が『百年の孤独』を読みながら、登場する人物をどこまで克明に思い浮かべていたか?というと、背が高くがっちりしていて髪の毛がもじゃもじゃで、などと、文字で描かれているものは思い浮かべていたものの、案外ざっくりとしたイメージしか持っていなかった。

映画のように映像として思い浮かべているというよりは、スケッチのような、ラフなビジュアルを思い浮かべている感じだった。それは逆にいうと、ざっくりとしたイメージだけで、小説を読むことができるということだ。

また『百年の孤独』には、家の中や風景の描写がふんだんに出てくるが、そのときどきで思い浮かべていたのは、写真のような切り取られたショットや、スケッチや抽象画のようなざっくりとした風景だった。それぞれの細かな部分や色や材質まで思い浮かべてはいない。単に私が想像力に乏しいだけかもしれないが、それでも、そのような不完全ともいえるイメージのなかで、百年の物語は流れていった。


著者はこんな風に言っている。

本は、私たちにある種の自由を与えてくれる。本を読む時、精神的に活動的になることができる。私たちは物語の(思い描く行為の)正真正銘の参加者なのである。
あるいは、あいまいで不完全な想像を超えられないことが真実ならば、それこそが、文字による物語が愛される究極の理由ではないだろうか。つまり、時に我々は見たくないのだ。

よく言われているように、小説が映画化されると、がっかりしてしまうことが多い。それは、自分が「参加者」ではなくなり、想像の自由が及ばない映像を、一方向的に与えられてしまうからではないだろうか。


こんな逸話も紹介されている。

カフカは『変身』が出版されるとき、装丁や挿絵に絶対に「虫そのもの」を描いてはいけないと、しかも遠くからの姿すら見せてはならないと禁じたそうだ。後にカフカの翻訳家が語ったところによると、読者の想像的行為を守るためというよりは、カフカは読者に、内側から外側を見るように、虫を見てほしかったのではないか、ということだ。

おそらく『変身』を読んで、読者が想像する虫はそれぞれに違うだろう。まったく同じということはそうないはずだ。だが、そもそも同じである必要はないし、その人が想像した虫はその人自身のものだ。その人自身が虫である「感覚」を得ることができたら、それこそが『変身』を読む喜びや楽しさではないか。


本書では、そういう「想像すること」が、「記憶」と密接な関係があることも指摘されている。

想像の材料として、そして想像と混ざりあっているものとしての記憶が、想像であるかのように感じるのではないか。そして、想像というものが、組み立てられた記憶のようにも感じるのではないかと思うのだ。
記憶は、想像上のものから作られていて、想像上のものは、記憶から作られている。
小説の出来事や付属物を思い描くという行為は、私たちに思いがけず過去を振り返らせる。
(そして私たちは、夢をたどるように想像の中を探り、ヒントや、失われた経験の断片を探すのだ)
言葉が効果的なのは、その中に何かを含んでいるからではなく、読者の中に蓄積された経験の鍵を開けることができるという潜在的な可能性があるからだ。
川という言葉は、川に支流が流れているのと同じように、ありとあらゆる川を含んでいる。そしてより重要なのは、この言葉にはあらゆる川だけでなく、すべての私の川を含んでいるということだ。私が今までに見た、泳いだ、魚釣りをした、聴いた、聞いたことのある、直接触った、またはさまざまに間接的に、曖昧に影響を受けた、覚えている限りの川を含むのだ。


これらの部分を読んで、ハッとした。私はよく、読んだ本について感想を書くときに「リアリティがある」という言葉を使う。それは著者の描写が細やかでそのことがありありと思い浮かぶとか、著者が実際に見たり聞いたりした体験がちりばめられているからだろうとか、それを「著者の筆によるリアリティ」としてとらえていた向きがある。

でも実際のところは、単に「自分が想像しやすい」ことが多かったのではないか。それは言い換えれば、自分がその作品に書かれていることと似たような記憶を持っていたり、その作品に書かれていることをきっかけに自分の何らかの記憶が掘り起こされたということではないだろうか。

だとしたら自分が作品を書くときは、読者にわかってもらおうとし過ぎなくていいんじゃないかと改めて思っている。自分にとってのリアリティを積み重ねていくことが、読者のリアリティを触発していくんじゃないか。そんなことを思った次第である。

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今日書いたことは、本書で出てくるごく一部の視点でしかないので、「本を読む」という体験を、現象学的に味わってみたいという方は、本書を手にとってぜひぜひ感想をシェアしていただけたらと思います。

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