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『千夜千冊 虎の巻』について(松岡正剛著)

松岡正剛さんの本を読む時は、とても背筋の伸びる思いです。それはあまりにも自分が、本を読んでいないことを実感するからでもあるし、本を読むための背景の知識やつながりへの意識が低いということを実感するからでもあるし、あまりにも自分の語彙が貧弱であることを、まざまざと見せつけられるからかもしれません。

本書は、2006年に発売された『千夜千冊』の導入本(入門書)にあたります。

『千夜千冊』とは、2000年から松岡正剛氏がWEB上で連載していた書物案内を、一年かけて再編集した全集。全七巻からなり、テーマがあまりにも膨大で、いったい一人の人間がこんなに本を読んで理解をできるのか、とくらくらしてきます。以前ISIS編集学校の門前指南に参加し、発売前の『千夜千冊』を見せていただいたことがあるのですが、重いですし、すごい文字量でした。

本書は、『千夜千冊』のWEBも全集も読んでいないインタビュアーが、正剛さんの解説を引き出しながら進めていくという構成。なので比較的簡潔に背景を説明してもらえていて、かつインタビュー形式のため読みやすくはありますが、出てくる書名、著者名はほとんど知らないか、聞いたことがある程度。紹介されている中で読んだことがある本は数えるほどしかありません。

さて、そんな本書から、正剛氏の「読書とは?」「読むとは?」という問いに対する答えにあたりそうな部分を抜き出してみました。以前、何かの記事でいくつか引用したこともあるのですが、どの記事だかもう自分でも見つけられず。ここで改めて。

本を読むとは、その本を通して未知の世界や未知の人間と接触したということ。また、その本の書き手やその本の写真家の思索や感覚といっとき交わったということです。読書は交際なんです。行きずりの恋かもしれないし、一期一会の出会いだったかもしれない。そういうことを、ぼくは、「かけがえのないもの」だと見ているんです。
読書では、著者の異様な目に出会うこともとても大事なんです。そこでギョッとしたい。わかったふりをするのが一番つまらない読書法。読書はね、脱帽したり、投げ飛ばされるのがいいんです。いや、読書で傷ついたほうが、世の中で他人に傷つけられたり、他人を傷つけたりしないかもしれない。
どんなテクストも、それ以前の無数の文化の中心からやってきた引用の織物なのだから、一つのテクストを読むのは多くのテクストをまたいで読むことなのだ
本を読むとは、結局さまざまに世界を間テクスト的に読むということなんです


本書内では、本の読み方を、いくつかに分類されています。

●ビタミンA読書法
気が向けばよむ。できるだけ好きな物を読む。コンディションによって読みかたを変える。リラックスして読む。

●ビタミンB読書法
読書をさまざまな生活や趣味のモードに照応させるように読む。そのモードにあわせて自分で読みたい本の傾向を決め、それをアタマやカラダになじませてしまう。そうするとそのトリガーが動いたとたん、自分の読む本がだんだん連動してくるようになる。外側との関係の度合で読む。

●ビタミンC読書法
基本マップをおいて読む。プロトタイプ(類型)を使って読む。社会や文化の基底にあるアーキタイプに向かって読む。

以下、C読書法の5パターン

・目次読書法 
 目次をちゃんと見る。感じる。できればアタマに入れる。パラパラとページを見て、目次を見た時に感じて想像したことをすばやく点検する。感じる。

・マーキング読書法
 「ピンときたところ」「よくわからないところ」を区別するマークをつける。著者が大事にしていそうなところは、その意見に賛成であろうと反対であろうと、ぜひともマーキングしたい

・要約的読書法
 各章を三カ条ずつにする。そもそも読書するとは要約すること。書いてある文字は目で追っていても、読んでいるのはその意味。

・図解読書法
 要約三カ条をフローチャートやダイヤグラムにする。何度かその図解をしているうちに、どんな本もいくつかの図解をアタマに置きながら読めていくことができる

・類書読書法
 いったんモデルとなる本と感じたら一挙にそのほかの類書に入っていく

この本を読んだのは大分昔ですが、当時、一番印象に残ったのは、類書読書法。「つなげながら読んでいく読みかた」です。

例えば、自分にとって、ある概念をすーっと理解できるなあと感じさせてくれる本に出会えたら、それをベースに類書をどんどん読み進めていくことで、その世界観が理解できてくる、というもの。

それからはできるだけ、同じ分野の本を5冊は読むようにしようというのが、自分なりの基準になっていました。さらに、よいなと思う作品に出合ったら、その著者の他の作品を少なくとも2~3冊は読むようにしてきました。


とはいえ、さらっと目を通すだけでは、そこまで理解が深まらないということも自分の体験から実感しています。それは読むだけで終わってしまっていたからです。

多くの人にとって、読書は食べ終わった食事や消えやすいシャボン玉のようなもので、なかなか残ってくれない。ぼくも長らくそうでした。そこであるときから、感想を書くということを課してきた。
たんに内容をかいつまむというのではなく、批評をしたり文句をつけるというのでもなく、その本にどのようにめぐりあい、いつどのような状態で読んだのかということ、さらには本と本のつながりぐあいに思いを致すということを綴ってきたのです。
こうしたことを通してぼくが感得したことは、読書は相互編集だろうということでした。

今改めて、これを読みなおして、本当にそうだなあという気が、しみじみしています。読書は相互編集なのだ、と。

最近、あらためて読んだ本をnoteで記録しようと思っているのは、こんなところからきています。誰かに向けてのブックガイドや本の紹介ではなく、あくまでも自分の人生との関わりを、そして自分が出会った本と本とのつながりを、大切にしていきたいと思っています。



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