書きながら考えると、グダグダだけど方向は見えてくるかもしれないと思って書いてみる
昨日のモニターインタビューの中で、自分の「前提、思い込み」についての気づきがあったので、書いて整理しておきたい。
昨日、お話を伺っていて、自分の中で「あたり前だと思って疑っていなかった前提」に気づいた。それは、「1つ向こうの何かを見たい。知りたい」という欲求だ。
今日の日中、こんな投稿をした。
この投稿は、
「うまい棒をつぶして食べるということを初めて知った」ことを誰かに伝えたくて書いたわけではない。
「うまい棒の食べ方を知った。→へえ、そんなやり方があるんだと、おどろいた」と言いたかったわけでもない(それもなくはないが)。
うまい棒の便利な食べ方を知った。
↓
ネットや誰かに教えてもらったのではなく、自分の「子どもに」教えてもらった。
↓
★自分が子どもを育ててきたと思っていたけれど、これから年を取ると、教えてもらうことが増えていくんだろうなという、その「予兆」や「兆し」を感じた。
私にとっては、この「★」の部分が、この話の中核にあり、それを表したくて、この投稿を書いた。
「★」は、「結論」とか、「一番言いたいこと」とか、「オチ」とか、「主題」とか、ざっくりとまあそんな感じのこと。
このある種の「構造」が、自分のパターンなのだ、ということに昨日気づいて、ちょっと一瞬、なんだろう・・・「ハッ」として立ち止まった。
普段、人と話をするときにも、その話なりの「★」に向かっていくことが、「当たり前」だと思っていた。
さらに、「書く」ということは、その内容なりの「★」を書きながら探すこと、その「★」に書きながら向かっていくことだと思っていた。
簡単に言ってしまうと「だからなに?」、「つまりどういうこと?」に駆動されて、自分は普段、話したり、書いたりをしていたということだ。
つまり、「①出来事・事柄・景色など」→「②自分の反応」→「③そこから自分なりの意味を抽出」ということを、いつも無意識に考え、話し、書いていたということ。それに気づいて、「ハッ」としたのだ。
これは、いい、わるい、の話ではなく、そういう自分の前提に気づいたという話。
今日のうまい棒の話を書くときに、「★」の部分を言葉として書かずに自分の中に持ったまま、「子供に教えてもらった」で終了、という終わらせ方もある。
だが、それでも「★」の部分を心や腹に抱いた状態で(意識化、言語化されているかどうかは別として)その文章を書くだろうから、その結果、文章に「★」の雰囲気や匂いが漂うかもしれない。漂わないかもしれない。それはわからない。
で。
昨日そういう発見があったというのが、上記に書いた「①出来事・事柄・景色など」→「②自分の反応」に該当する。
さらに今日、自然にそのことを考えていた。つまり自動で「③その一連の流れから自分なりの意味を抽出」することをやっていたのだ。
あらためて整理すると、
その「★」を、本人が意識化できていなくても、わざわざ言語化しなくても、たしかにその人の中に「ある」のだとしたら(ないとその出来事自体がひっかからないはずだから)、
それを無理くり「取り出す」とか「言葉のラベルをつける」方向に向かわなくてもいいんじゃないか。その出来事を単に描写することで、自然とそこに滲んでくるんじゃないか、という気づきが一つ。
そして、私のように、その「★」を「明らかにしたい」という欲求を持つ人と、そこまで別に求めてない人がいるんじゃないか、という気づきがもう一つあった。
おそらくこれは、私が今悪戦苦闘している吉本隆明 著『言語にとって美とは何か』で述べられている、「指示表出」と「自己表出」の話に関連しているんじゃないかという気がしている。
私が向かっていたのは、「指示表出」の方向で、「意味」を明らかにすることを求めていたのだろう。だが、おそらく意味を求めなくても、その人の中にあるものは、「自己表出」として、ほっといても表出し、それが「価値」になるんじゃないか。
言葉の理解があっているかどうかわからないし、これは考えているプロセスを書いているだけで、今のところ「★」には辿り着いていないけれど、でも今日のこの文章からは、なんらかの「自己表出」としての「★」が匂うのかもしれない。匂わないかもしれない。
(今日はほんとに、読んでくださっている方には、なんのこっちゃの話ですね、きっと。ごめんなさい)
ここでまたうまい棒の話に戻ると、今日書いた内容は、あくまでも私という「個」から見ている世界の話であって、違う「個」からしたら、まったく違う世界(物語)として、展開されていくだろうということは容易に想像できる。
「うまい棒をべちゃっとつぶす」という同じ出来事を目撃しても、まったくひっかからない人もいるかもしれないし、見たとしても何とも思わない人も、「へえ」で終わりの人もいるはずだ。
そういう違いはどこから来ているのかと考えると、これも昨日聴いた話と、最近読んでいる吉本氏の本から立ち現れてきているものだが、
私たちが「一つの世界だと思っている世界」の中にある、ありとあらゆるものを私たちはすべて見て知っているわけじゃなく、あるもののなかから、選び取って「自分だけの世界」を構成しているということだ(社会構成主義の手前の段階?)。
何を選びとるかというのは、性格や育ってきた家庭環境、文化や地域や教育など、内的、外的、先天的、後天的、様々な要因が作用するだろう。しかも私たちはそれを、意識してではなく、ほとんど無意識にやっている。
だから、私たちは、自分が世界はこうなっているのかとわかっている部分しか、自分の世界には存在させていない。
いろいろな格差や不寛容の問題は、そういうところに根差しているんじゃないかという気もする。
その上で。
その自分の世界の外やエッジのあたりに、うすうすあるな~と気配を感じている「なにか」があるとき。もしくは、森の中とか、洞窟の奥とか、隠れていて見えない「なにか」があると思ったとき、
人は、「行きたい、行こう!」と思うのか。「あるのかもしれないし、ないのかしれないし。まあ、それはそれで」と思うのか。うすうす感じている気持ちさえ、ひっかからないのか。そこに今は興味の焦点がある。
自分の場合は、
「あそこに洞窟がある!中はどうなっているんだろう?」
「あの森の中や、森の向こうに、何があるんだろう?」
と思うタイプで、気になって近くまで行くけど、そこに入っていけるかというと、少したじろぐというか、ずんずん進んでいけるほどの勇気はないかもしれない。
どうなっているんだろうと興味はあるし、見に行きたいけど、とにかく怖い思いをするのが怖い。
怖い動物や、怖い人がいるんじゃないか。
傷つけられるんじゃないか。怪我をするんじゃないか。殺されるんじゃないか、という怖さだ。
加えて、もっと他にやることがあるんじゃないか。そこに行ってどうするの?なんか意味あるの?という声もする。
でも、もしかしたら。そこに進んでいくことによって、
洞窟の中に倒れている人を助けることになるかもしれない。
ずっと噂で聞くだけだった、まぼろしの花が咲いている場所を見つけるかもしれない。
オアシスのような奇跡の景色に出会うかもしれない。
これまでに、人類の誰もが未踏の地ならば、それは難しいかもしれないが、過去に人が辿り着いたことがある場所ならば、その先人の踏みしめた道を辿って、私も行けるんじゃないかという気もしてくる。
なんか、頭の中でいろんなことが動いていて、うまくまとめて「★」に辿りつくことができないけど、
これはこれで、1つの「。」を打つことで、スペースができ、次の何かが浮かんでくると信じて。
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