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『読書の方法』について(吉本隆明著)

2009年に、日本を代表する思想家吉本隆明さんの講演がNHKで放送されていました。そのときの私は吉本隆明さんのことを、吉本ばななさんのお父さんとしか知らなかったのですが、なぜかとっても気になって、その講演をじーっと見ていました。

吉本隆明さんは2012年に亡くなられていますが、当時はまだご健在。御年は83歳で、ご自身で動くことははだいぶ不自由になられていたようですが、話しているうちにどんどんエネルギーがあふれてきて、最後、司会の糸井重里さんに止められなかったら、まだ何時間でもお話され続けたのではないかと思えるほどでした。

そのときの講演のテーマは「芸術言語論」です。ほぼ日で講演DVDが販売されていたのですが、完売してしまったみたいです


83歳の吉本さんから力を持って発せられたいくつかの言葉は、そのときの何も知らない私にも深く届いて、記憶に刻みつけられました。なかでもとても印象に残っているのは、そもそもの前提として、

コミュニケーションは枝葉であり、言語の幹と根は沈黙である

ということです。そしてその例として、「自己表出」と「指示表出」という言葉を使われていました。

「自己表出」は木でいう幹や根にあたる部分で、伝達目的ではなく、自然にあらわれるもの。

「指示表出」は花や葉、実にあたる部分で、人に伝えるためにあらわすもの。言語はこの2つから成っている。

ということです。
当時は、わかるようでわからないなあと思っていました。

ただ、そのあと、芭蕉の句のような、あの沈黙に近いほどの短さ、そこに日本語の芸術性があるということを熱意をもってお話されていたので、大事なものは見えなかったり、「間」にあるんだ、というように解釈したように思います。

その他にも…

精神構造の表現が芸術

芸術は経済的価値とは無関係、自己表出と自己表出の出会い

日本の芸術は、短くなることで価値を新たにする言語の根幹(沈黙)に近い芸術

日本人でただ一人、自己表出の域に到達しているのは横光利一

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、筋としても芸術の根幹としても完成されている

など、断片でしか拾えていないのですが、鋭く届いてくるお話がいくつもありました。最後になるにつれ、吉本さんはほとんど客席ではなく、その上の空間に向かってお話をしていました。天のどなたかに向かってお話をされているのかな?と思うほどで、その姿もとても印象に残っています。

「半世紀にわたって考え続けてきたことを、そう簡単には話しきれないよ」とおっしゃっていたので、「たしかにそうだ。もっとゆっくり吉本さんの考えを知りたいな」と当時からずっと思っていました。

そんな吉本さんが、本にまつわることについて書いた本がこちらです。

といってもご本人が書きおろしたというわけではなく、光文社の編集の方が関連する文章を集めて1冊の本にしたものです。タイトル通りの読書論というよりは、文学論、作家論、作品論に近いかもしれません。

・わが生涯の愛読書
・東京の本100
・ノンジャンルベスト120
・人に読んでもらいたいオーソドックスな10冊
・思想書ベスト10
・思想書(日本)ベスト50
・ナショナリズムの書
・私の好きな文庫本ベスト5

などの吉本さんの選書リストと、それぞれの本へのコメントなども載っています。

最初に、吉本さんの読書に対する姿勢が出てきます。
「なにに向かって読むということもなしに、手あたり次第に読み、途中でたちどまって書物からひき出されるとりとめもない空想や感想にふける」という自身の体験に「本を読むということの、ほんとうに大切な部分があった」としています。また本を読むことが、人がいうほど生活の役に立つこともないと言われています。

「ではなぜ本を読むのか?」この問いに対して、吉本さんのこれまでの読書体験や作品論などから、吉本さんの解が浮かび上がってきます。それは、本を読むことは自らの精神的な負荷を軽くするということです。

もちろん、知識を得るためであったり、仕事で必要だから、というような明確な目的のある読書というのもあるけれど、それは読書とは呼びたくない、という線引きがあるように感じました。

以下、自分の中で特に響いたところを、備忘録として残しておきます。

わたしの読書は、出発点でなにに向かって読んだのだろうか。たぶん、自分自身を探しに出かけるというモチーフで読みはじめたのである。じぶんの思い煩っていることを代弁してくれていて、しかも、じぶんの同類のようなものを探し当てたいという願望でいっぱいであった。
いままでの読書の体験のうち、恐ろしい精神的な事件のようなよみ方をしたのは、十代の半ばごろよんだファーブルの『昆虫記』と、二十代のはじめごろよんだ『新約聖書』と、二十代の半ばごろよんだ『資本論』であった。あえていえば、この何れの場合も、完全にこれらの書物を理解したとはいわない。しかし、たしかにわかったという感じがしたのである。
どんな微細な事であれ、巨大な事件であれ、事の大小にかかわりなく、その事のために膨大な時間を浪費することのできた人間の精神的な生活が書物の中にあるとき、その書物は事件のようにわたしのこころを動かすのではないか。(中略)読書が、こういう人物の精神に出会うためになされるのでなければ、あるいは、書物よりも、現実のほうがずっとおもしろいのではないかとかんがえる。
素人であるわたしがこんなことをいうのは、『資本論』の解釈に一生を費やしてやまない学者にたいして、後ろめたい気がするが、あえてゆるしてもらえば、わたしは『資本論』を千年に一度くらいしかあらわれない種類の書物だとおもう。その圧倒的な論理は、どうしようもないのである。
わたしは、『新約聖書』を理解した日本の文学作品としては、太宰治の「駆け込み訴へ」が、最上のものではないかとかんがえている。
太宰治彼自身の言い方をかりれば、いつも「おいしい料理」を読者に提供しようと気配りを忘れない作家だった。
文学でいえば、たとえば太宰治の小説など、僕は一級品だと思う。必ずしも波乱万丈ではない物語を、べらぼうに読みやすく面白く書く。最初の一行から読者をスッと作品の中に引き込んで、緊張感を張り詰めたまま、感銘させ、さまざまなことを考えさせて、スッと作品の外に連れ出す。書物はこうでなければいけないんです。
いくら蔵書の数が多い人でも、生涯のうちで影響を受ける本というのはほんの数冊にすぎないのではないか
古典がのこされているということは、人間の叡知というものがすでに遠い古い時代に、考えるべき大すじのことは考えつくし、感ずべきことの多くは感じつくしていたことの証拠のような気がする。
本を読むとはどういうことか。一口に言ってしまえば、日常生活の必要上より少しでも蒙る心身の負荷(負担)も、軽い負荷(負担)になるように本を読む行為のことだ、というのがわたしの考え方の中核にあるような気がする。


ちなみに私は高校3年生のとき、受験勉強そっちのけで太宰治を読んでいたので、特に太宰治に関してのところばかり引っかかっています。


吉本隆明さんの本は、その後何年も経ってから何冊もチャレンジしたのですが、いずれも途中で挫折しています。喉から手が出るほど読みたくなるときが、もしくはどうしてもその本のなかに欲しくて欲しくてしかたのないものがあると自分の内側から思うときがくるような気もしているので、その「とき」が来るのを待とうと思います。


※昔の自分のブログを基に再構成して投稿しています。

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