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文章筋トレで何を鍛えているのか?

今朝は起きてそのままWEBサイトの修正やメールの準備、コロナ対策のポリシー文章の確認など、気づいたらいきなり仕事に突入していて、いつもの朝のルーティーンをすっ飛ばしていた。いけね、と思ったときには、ゴミを出さなくてはいけない時間ぎりぎりだった。

今日も暑くなりそうだからと洗濯機をまわし、プラゴミを出しにいき、洗濯が終わるのを待つ間にいつものルーティーン。終わって、洗濯物を干していたらピンポンでヤマトさん、そして干し終わったらもうまるネコ堂の文章筋トレが始まる時間だった。

今日は5回目の参加。参加者4人。10分と45分で2本書く。

ただでさえ毎日noteで長い文章を書いているので、何を書きたいか?というのが最近あまりない。いや、なくはないが、まだ書けていないネタは自分にとって言葉にしにくい大物が多いので、こういう短い時間には向かない。どうしても直近の出来事の方が記憶が鮮明なので書きやすい。

ただ、過去に参加したときと似たような内容は書きたくない。
noteと一緒だ。ぐるーっといろんなタイプの内容や文章を試してみたい。毛色を変えてみたいというか。

参加している他の人が何をトレーニングしようとしているのかは、わからないし、あまりわかりたいとは思わない。想像したり感じたりすることはあるが、それはあくまでも憶測でしかない。わかってしまうと、無意識に寄せていったり、取り込んだりしちゃうので、そこはわからない方がいい。

せっかく自分が書きたいことを書いているわけだから、純粋にそこだけにフォーカスしたい。
自分の場合は書くときの基準が結構明確で「スポンテイニアスであること」だ。

※スポンテイニアス:
こういうカタカナ語使うと嫌われちゃうかもしれないのですが、こっちの方がしっくりくるので、ごめんなさい。「今その場で起こってくる」とか「自然に浮かんでくる」とか、そういう感じの意味で使っています。

よーい、スタートで始まった時に、

今、何がある?
今、何が言いたい?

と自分に訊ねる。

そこで浮かんでくること、言いたいことを、「書く担当の私」が代弁していく。そうやって「自分の内側から上がってくるものをキーボードに打っていく」という筋肉を鍛えているのが今のところ、この文章筋トレに参加してやっていることだ。

ただしそれは、今、目の前に見えていること、聴こえてくること、起こっていることを書くということではない。それは毎日モーニングページでやっている。3か月以上、毎日。

それよりは、せっかく書くのだから、内側にあるもの、何もしなければそのまま失われてしまうようなことで、今この瞬間に自分の中で声をあげていることを引っ張り上げたい。そういうことをフイルムを焼くように言葉で焼き付けたい。

そういうサインは普段見過ごされがちだ。それをしっかりキャッチして、ていねいに掘り出す。言葉をあてはめて、引っ張り上げる。それをすることは同時に、自分の内側に詰まっているもの、溜まっているものを消化(昇華)することになる。

早い話がアウトプットとしての文章は、「作品」というよりは消化したあとの「排泄物」みたいなものかもしれない。

もしくは、地面から抜かれた雑草、枝から落ちた枯葉みたいなものだ。
本体から離れたのだからそれ単体ではもう命を持たない。


それで思い出したのだが、先日雨が降ったあとに玄関の前の雑草を抜いた。
抜いた雑草をいつもはゴミ袋に入れて燃えるゴミの日に出すのだが、神社で切り落とした枝葉が山積みになっているあの箱――あれはなんと呼ぶのだろう?腐葉土を作るための大きい銭湯の湯舟みたいなの――のように、砂利の上に積んで放置しておいた。

そうやって土を作れるという記事を先日facebookで見かけて、そのことが頭をかすめたのだ。土をつくって、野菜を育ててみようかな、と。

その雑草を放置したものを、今朝、洗濯物を干すときに見たら、そこに野良猫がうんちしていた。猫のうんちも肥料になるのかな?と苦笑したのだが、土づくりへのモチベーションはしゅるしゅると萎え始めてしまった。もうちょっとちゃんと調べてからにしよう。

文章筋トレで書く文章は、その抜いた雑草と猫のうんちを思わせる。あきらめてやめれば土づくりはそれで終わりだし、うまく寝かせて、発酵させれば、新しい生命を育む土壌になる(かもしれない)。どうだろう。


今日は、気持ちよいくらい書き切ることができた。
書くための素材が詰まっていた喉や胃、腸がすっきりしたような感覚がある。

さらに、今日もまた「この表現を生めた」という喜びがあった。
毎回「書けた」と思うときは、特にお気に入りの1つの文がある。
その文章は、その1文を生むために書く必要があったのではないか、と思うくらいキラッとひかる1文だ(あくまでも当社比)。

たった一つの言葉、たった一つの文章であっても、その充足感は何にも代えがたい。完全な自己満足だけど、その瞬間のために書いているようなものだ。

そしておそらくそういう1文は、自己の向こうから、このスペースを見つけてわざわざやってきてくれたのではないかと思っている。自分が生んだというよりは、その表現が生まれるための産道に、自分がなったのだ。そのやってきた表現は、また次の表現のための道(path)になってくれる。一度通った道は、また通ることができる。

加えて、もともとの自分の中からわいてきた声も、内的な感覚も、書かれることで昇華していく。成仏する。なんと有意義な時間だろうか。

願はくは、この子供の一人遊びのようなトレーニングを通して、どこかの誰かに届くようなものを書ける筋肉が、育っていますように。
自分の声さえ書き表せないのなら、人の声を代弁することなんて到底できないと思うから。

今日も、余韻が残ったままの抽象的な感想ですが、そんな感じでした、まる。

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