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自意識だだ漏れ「ポエム」の「投稿おばさん」にならないために気を付けたいこと

自分が10年以上前に書いていた昔のブログを恥ずかしいと思うと以前自己紹介に書いたのですが、その理由は全体的に文章の雰囲気が「ポエム」だからです。

「ポエム」っていうのは、
「詩」といういみではなくて、

読点が、やたら、おおいか、
もしくは
とくに
改行が
おどろくほど
おおくて。

ひらがなの
やまとことばや、
愛とか絆とか
漢字一文字の
抽象ワードの
オンパレードで。

そういう文章を、
いま読み返すと、

わたしの、
文章力や語彙力が、
ないってことを、

とってもとっても
痛感するわけで。


これはちょっと大げさに書いていますが、こういう「雰囲気文章」みたいなものを「ポエム」と言っています。こういう形でしか表せないこともあるのかもしれないけれど、昔の自分の場合は明らかに文章力がないがゆえの逃げだったなあと思います。ここまで大げさには改行してないですけどね。

当時は、ポエムだろうがなんだろうがとにかくそのときの気持ちの不安定さを何かしらの形で外に出して落ち着きたかったんでしょうね。自分を助けるために懸命に書いていたんだと思います。

ただ「ポエム」の何がはずかしいかというと、おそらく知らない人から見ると「自意識過剰」にしか見えないというところにあるのかなという気がします。自分が宇宙の中心というか。宇宙が小さいというか。

今毎日あれこれnoteに書いていて、この「自意識過剰感」にどう向き合っていくかというのが日々ついて回ってきます。

人に認められたいという承認欲求とも違う。「あの人自意識過剰だよねと人に思われたくない」というのともちょっと違う。自意識過剰に映らないような文章を書くにはどうすればいいかと足踏みしているような感じでしょうか(ここはまだちょっともやっとしていますが) 。

かといって、漢字の熟語ばかりが並び、体言止めが多用されていて何回も読まないとわからない文章や、意味はわかるが何回読んでも何を言っているのかわからないという文章も問題だし、

「わかるやつにだけわかればいい。そしておまえらなんかにそうかんたんにわかるものか」という意識がムンムンと伝わってくる文章もなんだかなと思う。

いずれにしても、そういう「?」と思う文章にしても「ポエム」にしても、書いている本人よりも読み手の方が敏感に、その「漏れ出ている自意識」を察知しているのではないでしょうか。

だから文章をさらすのって勇気がいるのですよね。文章が上手い下手というよりも、人物そのものをさらしてしまうことになるから。
その文章は何らかの内容を表したり伝えるために書かれているはずなのに、実際はその内容を書いている人の意識のあり方のほうが多く伝わってしまう(ことが多い)。そのことはいつも肝に銘じていたいものです。


コラムニストの小田嶋隆さんは『ポエムに万歳!』という本の中で、

「ポエム」のことをこんな風に言っています。

ポエムは書き手が、詩であれ、散文であれ、日記であれ、手紙であれ、とにかく何かを書こうとして、その「何か」になりきれなかったところのものだ。
だから、ポエムは文章の行間に、突然顔を出すことがある。感情に流れて文体がブレてしまったり、語尾が舌ったらずになったり、結論が、前提と関係なく屹立したりすると、文章はポエムの色彩を帯びる。
別の言葉でいうなら、照れ隠しをしようとしている時、人はポエマーになるわけだ。
書き手が何かをごまかそうとする時、文体はポエムに近似する。

昔の自分が読んだら、(イタタタ……)と心では思いつつ、「こういう理屈っぽいこと言う人ってイヤ!」と拒絶していたかもしれません。

今は、本当にそうだなあと素直に思います。書いているときにうまい言葉が出てこないと、にゅるっとそれっぽい抽象語を書いてあいまいにして終わらせることが、私はよくあります。

だからこそ「ポエム」に逃げずにそのときの精一杯の文章として書き切りたいなといつも思っています。それが何かの出来事についてであれ、自分の内面で起こっていることについてであれ。

ちなみに、小田嶋さんは個人の「ポエム」を否定しているというよりも、政治家や役人の言葉、官公庁のプレスリリースなど、説明すべき責任のある文章が「ポエム化」していることを問題視されているので、そこだけ補足しておきますね。

さらに、最近、林真理子さんのこの本を手にとりました。

二章の「林真理子の文章読本」で書かれていることからの引用です。

「誰もあなたのことなんか知りたくないのだ」
私は素人の人の書くものは、すべてここからスタートしていると思っている。ここのところをよおく心に刻んでおかないと、誰にも読んでもらえないものをひたすら書き続ける「投稿おじさん」「投稿おばさん」になってしまう。

チクリと(グサリと?)痛い言葉です。
誰も自ら進んでそうはなりたくないですよね。

では、誰も知りたくないかもしれないことを毎日書き続けつつ、「投稿おばさん」にならないためにはどうしたらいいのか?というと、林さんは「面白いものを書く、これに尽きる」と言っています。そのかわり「かなり努力しなくてはならない」と。

まずサービス精神をフルに働かせること。正直に書く。謙虚に書く。素直に書く。そして時々笑わせる。ふつうの人の世界ならではの面白さ、共感の場所へ読者をひっ張り込むことが大切だ。そしてオチにはうんと気をつける。

うんうん、それは大事だなと思う反面、そんなにさらっと言われてもどうやってやるんだ?とか、毎日やるのってきついなあって思いませんか? もちろん何かを書く以上、人に楽しんでもらえるような文章を目指すことは大事なことだと思いますが、その手前のハードルがまだあるような気がします。

3月にnoteで書き始めた頃、どなたかのnoteでこれとほとんど同じようなことを言っている文章を目にしました。そのときは私は「誰も読みたくないことを毎日垂れ流しているだけなのかな……」とちょっと落ち込んでしまい、毎日noteを書く気力を維持するのが大変でした。なので、こういう文章の書き方についての本やnoteの投稿をしばらく意識して避けてたんですよね。

あくまでも個人的な体験からですが、最初のうちはたとえ他の人から垂れ流しと思われようとも、自分がそのとき思うように毎日書く方がいいと私は思っています。書き続ける中で、見つけるもの・気づくことがあるはずだろうし、自分で「こういう風に書きたい」と思うものが出てくるだろうから。その後サービス精神で書くことに向かっても遅くないんじゃないかと。

私の場合はまだ続けて100日くらいですが、ある程度自分で書きたいことを書き続けてみて、最近やっと「足りないことを知りたい」と欲する気持ちが浮かんできたので、改めていろいろな作家さんの「文章読本」の類を手に取るようになりました。これも人によりけりだとは思いますが、ある程度書くことが習慣化してからそういう本を読んだ方がいいんじゃないかと思っています。

そうでないと自由に書けなくなってしまうというか、言葉が出てくるそばから自分でそれを押さえつけるようになってしまうからです。「人に認められるための文章を書きたい」ということが先にあると、かえってその人らしい、本来の個性が宿るであろう表現が抑圧されて、素直な自分の思いを出しにくくなってしまうのではないかと思うんです。それは先々自分が枯渇するというか、苦しくなるのではないかという気がします。

そしておそらく、noteで書くことを続けてきた人は、そういう迷いや葛藤のようなものとそれぞれ向き合いながら続けてきた(いる)わけで、その分、書き手の迷いや葛藤にも共感しながら読んでくださっていると思うのですよね。そこは希望的に思っています。


今のところ自分なりの「自意識過剰感」への対策として、『インサイド・ヘッド』のように自分の中でいろいろなキャラが役割分担をすることで、ある程度ポエムの垂れ流しみたいなことは防げるのではないかと考えています。

子供のように無邪気に言いたいことを言うキャラも必要だし、理性的なキャラ、悲観的なキャラ、毒舌なキャラ、楽観的なキャラ、いらっちのキャラ、誰でもそういう複数の側面を持っていると思いますが、その中に一人、賢者のキャラに加わってもらう。迎え入れる。

例えば、自分がいいなあと思う作家さんの、文章の書き方的な本をちゃんと読んでおくと、そういう脳内キャラチームの中に一人賢者が加わってくれて、それぞれのキャラのよい面を統合しながら、バランスのとれた文章にまとめていくことができるかもしれません。

「ポエム投稿おばさん」にならないためには、「賢者」に脳内チームに加わってもらうこと。

それが今のところの自分なりの対策ですが、いや、そもそもこの太字にした一文がどうも「ポエム」っぽい匂いがしますね……。

この先どうなるか。もう少し先に進んでから、気づきや発見を書きたいと思います。

ちなみに、ふりきって「ポエム」で遊んだ作品がこちら。

こんなふうに、遊べるくらいにまで文章を自在に取り扱えるようになると、書くことがますます楽しくなりそうです。

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