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まるネコ堂芸術祭の感想と、ぐるぐるしている問いについて

今日はZOOMで、第0回、まるネコ堂芸術祭に、参加というか見学させてもらった。
自己紹介できるスキマがなかったので、多くの方には「誰だこいつ」状態だったかもしれないけど、またどこかでご挨拶できればよいなと。

今の時点での自分の内面を自分でつかむために、ちょっと備忘録的に感想を書いておきます(朝のタロットのセッションは途中から他の対応が入ってしまったので割愛します)。まったく開催の背景などのコンテクストを知らないまま、勝手なことをいうかもしれませんが、ご容赦ください。。。


「文章筋トレ」と「小説」のセッション

有さんが書いてきた数年間のプロセスを知ることができて興味深かった。続けるってすごいよなあと改めて思った。その人なりのウェイがあるということも。朝引いたタロットがペンタクルの3(技術が人の目に留まる、お披露目される)だったことを思い出した。

ただ、私が作品の感想を言うときに、上手く言えなくて、おそらく聞いていた人はみんなちんぷんかんぷんだったのではないかと思うので、自分の納得のためにも、言いたかったことを、あらためて書いておきたい。


私は事前に送付していただいた作品を1回目に読んだとき、ついつい筋を追ってしまった。こうなってああなって、こうなるのか、なるほど、と。

で、2日くらい間をあけて、その筋が自分の中で少し薄れ始めた頃に、2回目を、自分の心が反応する部分に注意しながら読んだ。

すると、1回目とはうってかわって、外に見えるものを描写することによって、「書くときの内的プロセス」を描きだしているというように感じられた。作品を書くときに、作者の内側で起こっていることを象徴した物語なのではないかと。

そう思ったきっかけが以下の部分。

書き始めて、流れに委ねてみると、最初に思い描いたようには進まなくなり、どちらかというと、委ねた先の辿り着く場所のほうが、本当の自分が望む世界に近いというか、そういう感覚になることもある。
逃げられるときもある。何に逃げられるかというと、自分自身に逃げられる感じだ。本当は、展開したい方向から、ぼく自身が逃げるのだ。ぼくは自分自身に逃げられたと感じる。

・書こうと思っていない方向に作品が進んでいく。
・書こうと思った方向から逃げる自分がいる。

この2本の糸が、作品を貫いているように感じた。

その視点に立って作品を読むと、出てくる描写が、あれもこれも、象徴的なものに感じられてくる。

すぐに返信しないスタッカートなメールのやり取り
急げば間に合いそうだけど渡ることをあきらめる
橋の真ん中で立ち止まって誰もいないベンチを眺める

カンカンと警報機が鳴る
遮断機が下りる
連結車両が目の前に止まる
踏み切りを渡ろうとするとまた反対車線の矢印が灯る
横切る黒ネコ
ひっかかる喫茶店のドア

こういった主人公の行動や目の前で起こることのもろもろが、書くことがすんなりいかないプロセスや、迷い、悩み、つっかえながら書くプロセスに感じられる。

そして主人公以外の登場人物、

冊子をくださいと言ってくるミヤマエさん&白いジャケットの女性
私も読ませてもらってもいいですかという喫茶店のマスター

はおそらく作者の一部、分身ではないか。

ミヤマエさんは作者が書きたいものを知っている人
マスターは違う方向に作品を誘う人

その2人の服は白い。その白は、書くときにぶつかるデコボコがないときの状態を象徴しているのではないか。


ミヤマエさんと主人公は最後まですれちがい、会うことがかなわない。
二車線が対向する道路は何度も出てきてそのことを象徴している。

でも、主人公は、ベンチに座っている白いジャケットの女の人の「存在をたしかめている」し、ミヤマエさんはホテルから(ベンチからも?)主人公の姿を見ている。主人公がその場を去ろうとしたときに、白いジャケットの女の人がまた現れる。すれちがいながらも、お互いに、お互いの存在をたしかめあっている。そして、翌年会うかも…という香りを残して作品は終わる。

「なんとなく、来ない気はしていた。現れない気がしていた」
「ミヤマエさんは、ぼくとどこかで会ったことがあるのでしょうか?」

と思いながら、主人公はちゃんと気づいているのではないか。
ミヤマエさんが、自分から逃げていった自分であるということに。

あとは蛇足だけれど、
ジャムと赤いトートバッグは、作品の完成のイメージ。
喫茶店の名前と、ペンネームの下の名前は、次の作品への希望を表しているのではないか、ということも感じた。

そんなこんなを思ったあとに、この「読み」は、自分の心理を作品に投影して、読んだのかもしれないなあと思った。自分がよく書きながら、自分から逃げるから。自分が逃げていってしまうと感じるから。その「逃げる」は、この作品で書かれていることとは意味が違うかもしれないけれど。

というように、いろいろ想像しながら、楽しく読ませていただきました。
「読み」と「書く」についてあらためて考える機会をいただき、ありがとうございました。


芸術は不要不急なのだろうか のセッション

セッションの大谷さんの話をお聴きして、「そうだよなあ」というのがまず一言。自分が、働く人の想いや理念みたいなものを研究してきたことと重なる部分もあって、大きく頷くことも多かった。

で、時間が来てちょっとたった今は、そもそも「芸術とは何か?」ということが渦巻いている。芸術に含まれるもの、含まれないものの境界はあるのか?あるとしたらその基準は何か?

さらに、大谷さんは「結果だけでなく、プロセスも芸術と呼んでいいんじゃないのか?」と言っていた。「うん、そうだ」と思う。

こちらも少し時間が経ってみると、
プロセスは表現じゃないのか?
表現の結果が芸術になるのではないのか?
芸術と表現の違いはなにか?
ということも渦巻き始めた。

Googleで調べるのはちょっとこらえる。
自分のぷにょぷにょの頭で一応考える。

美術館に飾られている絵画は芸術で、今私がもやもやとした内面をクレヨンで描いてみたとしたらそれは芸術じゃない気がする。
文学作品は文章芸術で、私が書き散らかしているようなnoteの投稿は芸術じゃない気がする。

こうして並べることはおこがましいが、そこにある差はなんなのか?
その道の専門家や、大勢の人が認めたら芸術なのか?
何かをクリアしたら芸術なのか?
なんらかの理論に合致していたら芸術なのか?


作家の浅田次郎さんは、「芸術とは?」という問いに(主に文学の観点から)、個人的な定義を持つ必要があると言われていた。
自分が何かをなすときに、ベースになるものを定義しなければ、努力のしかたがわからない、方向がわからない、と。

浅田さんの定義は「天然の人為的再生産」

古典の詩歌の世界はまさにこれをしていて、桜の花を見たときにきれいだと思うけれど、そのように「人の心」を通してみて、それを再生産するときに、天然を超える可能性がある、という。浅田さんはその一瞬をつかまえるために、文学をやり続けていると。


じゃあ私が毎朝、半径300mくらいの範囲の散歩で、驚くこと、目を奪われるものを見つけようとしていること、これは芸術に近い領域にあるのだろうか?芸術ってなんだろう?まだもやもやしたままだ。


表現の衝動

そんなもやもやとした状態で「わかりにくいことをわかりやすく話してくれる」大先生と、私が勝手に思っている平田オリザさんの『演劇入門』を見返した。何年も前に赤線をひっぱった箇所が、私に語りかけてくれる。

先にテーマがあって、それを表現するために作品を創るのではなく、混沌とした自分の世界観に何らかの形を与えるために表現をするのだ。
「伝えたいことなど何もない。でも表現したいことは山ほどあるのだ」
伝えるべきものがないというのは、伝えるべき主義主張や思想や価値観は、もはや何もないということだ。だが、伝えたいことなど何もなくても、私の内側には、とめどなく溢れ出る表現の欲求が、たしかにある。
その欲求は、世界とは何か、人間とは何かという、私の内側にある混沌とした思いに、何らかの形を与えて外界に向けて示したいという衝動と言い換えてもいい。
世界を描きたいのだ。
「表現の欲求」とは、この「私に見えている世界」「私に聞こえている世界」を、ちゃぷっとわが手に捕まえて、それをそのまま記述したい、演劇という形にしたいという単純で暴力的な欲求だ。
私たちは、テーマがあって書き始めるわけでない。むしろ、テーマを見つけるために書き始めるのだ。それは、私たちの人生が、あらかじめ定められたテーマ、目標があって、生きているわけではないのと似ているだろう。私たちは、生きる目的をどうにかつかもうとして、この茫洋としてつかみどころのない人生のときを、少しずつでも前に進めていくのではないだろうか。私たちは、生きるテーマを見つけるために生き、そして書くのだ。

私にとっては、このオリザさんの言葉が、芸術の根源にあることのような気がする。「世界を描きたい」、「人間を描きたい」、「表現の欲求」、「表現の衝動」、「生きる目的をつかむため」。

特に、「世界とは何か、人間とは何かという、私の内側にある混沌とした思いに、何らかの形を与えて外界に向けて示したい」という「表現の衝動」。これには「自分とは何か」も含まれているのだと思う。

誰かの言葉を借りて、うんそうだ、というのは、またまたショーペンハウエル先生に叱られそうだけれども、だって本当にそういう気がするのだから。


「芸術とは何か?」ということになんで自分はひっかかっているのか?と考えると、おそらく自分のなかにそんな「表現の衝動」があるからではないかと思う。

多かれ少なかれ、どんな人にも「表現の欲求」はあるだろう。その手段は、踊る、描く、歌う、弾く、造る、作る、その他どんなものであってもいいと思う。だってそのほとんどが、そもそも太古の昔から人間がやってきた行いでもあるのだから。いってみれば、当たり前にあるものではないか。

そして、「そうせずにはいられない」、「しないでいられない」というのが「表現の衝動」ではないか。じゃあ、その衝動によって生まれたものは芸術たりえるのか?と考えると、またうーんとなる。

とりあえず今日のところは、そういう「表現の衝動」に駆動されて進んだ先に、芸術があるのではないか? ということにしておこう。

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