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断片化した思考と自分を眺めた今日の文章筋トレ

今日は午前中、まるネコ堂の文章筋トレ。8回目の参加になる。10分と60分の2本。今まででいちばん、書くことが「すっ」とは思いつかなかった。

これを書いている18時の時点で考えてみると、思いつかなかった理由は、なんらかの思考の断片が、いつも自分が持っている以上に多く、頭のなかを駆け巡っていたからだろう。

だから「思いつかない」というよりは、手が重かった。どの断片を捕まえて書くか、ちょっと慎重になっていた。どれを選んでも「ちょっとやっかいそうだぞ」という感じで。これは、巧妙に負荷を避けようとしていたのかもしれないな。

で、60分の書く時間が始まってから、最初の内はどうしようかなーと少しじりじりしていた。手が動かせず、タイマーの減っていく数字を見ていた。数字が減るのを見ているとあせるので、PCから離れた。

そのじりじりは、今振り返るとおそらく、何かしら形をなした、意味のあるものを書きたい、という半無意識の欲求から来ていたのだろう。

トイレにいったりお茶のおかわりを注いだりしてPCに戻って、とりあえず思考の上の方にあるものから書いていこうと思いながら書き始めた。書いている途中でも、「これはどこに向かうんだ? どこかに至るのか?」という声が何度か聞こえてきた。

でも、そもそもこの時間内で何かしらの文章の完成を目指しているわけではないよね? ということを自分で再確認し、「ああ、今わたし、じりじりしてるなー」ということを味わった。「ふふふ、じりじりしてるよ」と。

書くことに夢中になって60分が過ぎるのも(は)、すっきりして楽しい。だけど「じりじりしてるなー」と思うことも、それはそれで楽しかった。夢中になっているときは自分という感じがなくなっているけど、じりじりのときはまさに今の自分を体験するというフレッシュな体験だから。

そんなふうに味わいながら、なんとなく思考の上澄みのようなものを打っていたら、結果的に「断片が流れにぷかぷか浮かんで流されている」ような感じの文章が書かれていた。

読み込みをして感想を共有しつつ、その後なんとなくのトークをしていたら、書き始めるまえのぼやけていた状態が、少しピントがあったような、だけどまだまだピントがあっていない状態に、少し変化した。

一眼レフを構えているときもそうだった。慣れていないからピントがあうまでに私は何度もレンズをまわしていたっけ。写真も文章も、そして考えることも、まだまだそんな状態だ。

今日はそんなトレーニングだった。

以下、60分の文章を掲載。途中の網掛け部分に、コメント(言い訳&補足)を追記しました。

↓↓↓↓↓


●何かをよいとすると、よくないができるということについて。

わかりやすいことがよい。伝わることがよい。という人がいる。
そうするとその人にとってはわかりにくい文章はよくない文章になる。

だけどそのわかりにくい文章を書いている人は、わかりやすいことをよいとしている人を対象にはしていない。
そのわかりにくい文章を書いている人は、自らが対象としている人に向けてそのわかりにくい文章を書いている。対象となっている人にとってその文章がわかれば、「伝わること」というよいはクリアしている。もしかしたら「わかりやすいこと」もクリアしているのかもしれない。

多くの国では、知識階級は知識階級同士でしか話をしないそうだ。
だから下級の労働者層と呼ばれる人たちに理解できる言葉を使う必要をまったく感じていないのだという。

結局自分は、自分のレベルでわかる程度の範囲で「わかりやすい」「伝わりやすい」と考えているに過ぎなかった。
自分がわかりにくいと思うときのその「にくさ」は、どこから来ているのか、少し立ち止まるようにしようと思った。

(補足)書き出しのところが「わかりにくいなあ」と思って、カギカッコや補足をしようとした自分がいたのだが、あえてわかりにくい(読みにくい)ままにした。自分が囚われていた「わかりやすい神話」から抜けてみたいと思ったのかも。


●人はメタメッセージを聞くということについて。

学校の授業中などに他のことをしていたり居眠りをしていたりで先生の話を聞いていなくても、「ここは大事だから線を引いといて」「ここは試験に出るから」という言葉だけは、みんながばっと起きて聞くのだという。そういう言葉をメタメッセージというのだそうだ。本当に人に伝わるのは、このメタメッセージだけだと。

何かの言葉を発しているときに、その発語によって何が伝わるかというのも、メタメッセージとなる。
警察官の二人組が「あのーちょっと身分証明書を拝見してよろしいでしょうか」と言ったら、伝えていることは別のことだ。
カフカが友人に言った「自分の死後は原稿を全部燃やしてくれ」という言葉を、どんなメタメッセージとして友人は受け取ったのか。

人はメタメッセージをやりとりして生活をしているという枠組みで日常をとらえ直すと、ちがった景色が広がるような気がする。が、やり過ぎると精神が分裂しそうな気もする。


●集中という問題について。

何かをしている。集中している。
ふと気が離れるときと、没頭し続けられるときとは、どんな風に違うのか。

とまらずに文章を書いているときと、すぐに手が止まってしまうとき。
本を続けて読んでいるときと、読むのをやめてしまうとき。
会計ソフトへの入力や、お風呂掃除、雑草とり、呼吸法や瞑想。

自分で始めと終わりを決められるとき、「続いている」と「やめる」の分かれ目は何か。

この先を書きたい。
この先を読みたい。
この先を終えたい。

が一番強いときは続く。これはほっといてもいい。

止まる、やめる、ときは、

他のことがそれより上に入ってくる。
意識の流れがスタックする。
目のまえの行為に不快感を感じる。

と原因はいくつかある。

そう考えると、何らかの原因によって止まる、やめることはしょうがないような気もする。そこは防げない。
結局、とまったときにどうするかではないか。

そのまま他のことをやるのか。
スタックしてあきらめて、スタックしないなにかに逃げるのか。
不快感を目の前の行為のせいにし続けるのか。

これはもう少し観察する課題にしよう。

(補足)「ほんっと、私って集中力ないよなー。どうしようかなー」ということを、まわりくどく書いているのだけど(笑)、自分の場合は回り道をしないと、必要なポイントに辿り着けないような気もしていて、自分のなかでは足を前に運んだ感じはあるので、これはこれでよし。


●もやもや、ざわざわ、きゅーという身体感覚について。

もやもやは言葉が出てきにくい、ぐるぐるまわっているような感覚。見えない、わからないけどなんかあるという感じ。
ざわざわは、心臓の近くを虫が這い、心臓の近くに寒気がしているような感覚。やばいとか、あせりという感じ。
きゅーっというのは、下腹がすくむような、今にも性器から串をさされそうな感覚。すごくやばい、超こわいという感じ。

ざわざわを何で感じるのか、考えてみたいと10分の文章を書いたのだが、書くことで別のものになる。ざわざわについて考えるのは、オンゴーイングでざわざわしているときにしよう。

(補足)自分によく起こる、ある種の身体反応というのがいくつかあって、この他には、喉がつまる感じとか、奥歯をかみしめて肩が固まる感じとか、足やお尻が接地していない感じとかいろいろある。とりあえず「もやもや」という言葉がいろんな文脈で頻出ワードになってきていて意味も多様化している感を感じているので、もやもやに変わる感覚表現を今さがしている。


ここまでは、朝起きてから考えたことの羅列だ。
読み返してみると、この時点の自分は何を感じるだろうか?というと、

最近読んだ本によって、特に強く受けた印象が頭の中にうごめいていてこんなことを考えているのだな。
本を集中して読めないなあと昨日強く思ったことでざわざわしていて、今朝「翻訳16時間」の話を思い出したのだな。
きゅーっという感覚はこれを書いていてついでにつけ足しました。

昨日の夜と今朝はざわざわが何度かやってきた。

昨日の夜のノートには、

「ありたい姿を考えると、ありたい姿ではない自分が見えてくる。でも、何かの断片ではなく、流れが生まれていくような、そういうのがいいよなあ。やりきることが質を作っていく。書き切る。読み切る。考え切る。そのためには時間が必要だし、覚悟も必要。あとは問いと視点と回路かなあ」

と書いている。結局、昨日から今朝に、考えていることの流れは続いているんだな。
断片のようでいて、流れている。断片が流れている。断片が流れていくと、どうにかなるんだろうか。どうにもならないんだろうか。

大雨災害で大変な思いをしている人の映像を、朝のニュースで見ているのに、私は呑気にそういう思考の流れについて書いている。
という新たな断片も浮かんできた。
時間だ。

(補足)今日だけで「断片」という言葉を何十回書いて、口にしただろうか。自分の思考や認識が断片化していることに、少し焦りを感じているのかもしれない。この文章を書いたおかげで、断片化によるあせりは少し沈静化した、ような気がする。書くことは、そんなふうに、状況を変えなくても、何かしらの解や策を見出せなくても、「観る」ということをかなえてくれるということを実感した。


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