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若松英輔さんのオンラインゼミ『沈黙』に参加して

先日、若松英輔さんのオンラインゼミに参加した。「遠藤周作の世界 第三回『沈黙』」という講座だ。30分延長してたっぷり4時間のお話を、びっちり12ページ、ノートにとった。

『沈黙』は、遠藤周作の作品の中でも、繰り返し触れたという意味で、自分にとって重要な作品となっている。

昨年の投稿で、こんな問いを書いていた。考えることを後回しにして、寝かしていた問いだ。

・村の民たちは、厳しく迫害され、表向き仏教を信仰してると見せかけてまで、どうしてキリスト教の信仰を継続していたのか?

・仏教になく、キリスト教にあるものはなんなのか?

・小説の舞台となったような貧しい土地で、厳しい年貢の取り立ての中、民たちはなにを思い生きていたのか?

・ロドリゴ司祭やガルペ司祭は、どうしてそこまで自らの使命を全うしようと思えたのか?その他、当時、命をかけて信仰を広めようとして海を渡った宣教師たちを動かしていたものは何だったのか?

・キチジローの存在は、何を象徴しているのか?なぜ何度も何度も登場するのか?

今回、これらの問いについて若松さんの語りのなかに「そうか、そうだよな」と思うことが散りばめられていた。一年越しで問いが解消していくことに、ある種のカタルシスのようなものがあった。

だが、そこには自分で考えて辿り着いたわけではないし、自分だけで考えて辿り着くことはできない。やはり、読みには指南役がいるということを実感した。それだけ自分が読めていないということなわけなのだけれども、これからも繰り返し読むことで、その「そうか」が、もっとぐっと肚に落ちていく感覚を、感じてみたいと思う。


講義のノートから、具体的な内容に関しては避けて、作品への向き合い方についての部分だけ、少し残しておこうと思う。

『沈黙』は、歴史小説ではなく、むしろ今の私たちの心のありように、深いところから問いを投げかけてくる小説である。
この小説を読むときに大事なのは、外から見てしまうのではなく、自分もイノウエの目を持って、ロドリゴを見ること。ロドリゴの目を持って、イノウエを見ること。ある一点に目を据えて読むのはもったいない。作品にうまく入れないときは、目の据え方がかたまりがちになっている。そこを生きるように読む。あの時代の、あの空気を感じながら読む。そうすると、魂をノックしてやまない作品となる。
遠藤は、語らざるものの中に不安の兆しを描き出す。情景を描写していると思うところに、ときの蠢きや、ときがどう迫ってきているのか、今がどう変貌しつつあるのかを感じながら再読するといい。
遠藤がなぜここまで書けるのかというと、小説家は”コトバ”を託される人。そこには個人が想像する以上のたしかさがある。『沈黙』を通じて耳にする”コトバ”は、遠藤が自分で作るより生々しい”コトバ”。
美しいものをにぎりつぶす。信じてきた美しいものがくずれさって、そこになお生まれてくるものをどう掴み取れるかが、読み手のやるべきこと。なぜこわしたかではない。
わからなくなってきたら大成功。この小説の巨大さがわかってきたということ。こういう芸術ははかりしれないほど大きい。わからないということが教えてくれる道行き、照らし出してくれるものが大事。違う次元のわかるが始まる。自分のキャパで生きないこと。プールでは「速く泳ぐ」を経験するけれど、海では「一体となる」を経験するように。


「学びは螺旋」とは、よく言われるし、自分でもよく使う言葉だ。
自分の学び螺旋を、のぼっていくのか、おりていくのか。いずれにしても若松英輔さんの読み解きという杖を受け取って、さらに作品の世界に入っていこうと思う。

来月の第2回のゼミを視聴してから、さらに『沈黙』を読み返して、さらに入っていった世界について、書きたいと思う。



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