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ライティング・マラソン#32の記録

8/26(土)にライティング・マラソンの32回目を実施した。

☆ライティング・マラソンとは?
「ライティング・マラソン」とは私が勝手に言い換えて呼んでいるだけで、もともとはナタリー・ゴールドバーグの『書けるひとになる!―― 魂の文章術』という本の中で「作文マラソン」として紹介されているものだ。やり方は簡単。一定時間書く。時間が来たら自分の書いたものを読み上げる。お互いにそれを聞く。他人の書いた文へのコメントはしない。コメントをしたくなったら次の自分の文章にそれを表す。そうやって書いては読み、読んでは書くを繰り返していく。それをやるとどうなるか? ナタリーは「書きたいことが気軽にどんどん書けるようになる」、「自分を切り開く体験」になるという。

いつもなんらかのカードを引いてテーマを決めるのだが、この日はDr.チャック・スペザーノの「セルフ・セラピー・カード」を引いてテーマを決めた。
短時間で書いたものなので粗い文章だけれど、記録として残しておこうと思う。

10分 愛(LOVE)

保護した子猫2匹をわが家に迎えて11か月ほどになる。最初は500gくらいだったのに、4kgになった。見ているだけで愛らしい子猫から、愛着のある家族の一員になった。毎日毎日、可愛いと思う瞬間が積み重なっていく。慣れると薄れそうなものなのに、慣れるからこそ可愛いと思うことが増えていく。

それにつれて「可愛い」という感情・感覚はどういうことなのだろうか、と考える。字が表しているように、「愛しい」が可能になるということなのだとしたら、可愛いというのは、うちの猫たちのように共に過ごすうちに育まれていく愛情のようなことをいうのだろうか。現代の文脈における「カワイイ」は、ものすごく広い意味を含むビッグワードになっている感がある。だけど、よーく目を凝らしてみていくと、そこにあるのは対象に対しての愛情なのではないだろうか。

夜中、ふと目が覚めると、私のベッドに2匹が一緒に寝ている。顔を寄せ合ってシンメトリーな体勢で、2匹でハートの形になっている。台所で洗い物をしていると、すぐ横のラックにのぼって私をずっと観察している。化粧をしていると、近くのキャットタワーで同じように私を見ている。ずっと傍にいてくれるから愛おしいのだろうか。この感情はまだよくわからない。

20分 真実の愛(TRUE LOVE)

※省略

30分 清らかさ(INNOCENCE)

先日、「美しいとは何か?」というテーマの哲学対話に参加した。美しいも、愛と同じくらい大きなテーマでよくわからない。

すぐに思い浮かぶのは夕焼けの美しさとか、花の美しさとか。それは別の言葉でいうと、それがあることへの畏敬の念のようなものだ。すごい、という感じ。

一方で自分が美しいという言葉を使うのは、大分質が違う。どちらかというと数式の美しさに近いと思うのだが、無駄がない、合理的、最適というような考えを、自分ではよく美しいと表現する。たとえば何かの解決策を考えるとき、その状況やその人達のことを考えるとこれが一番最適な解決策だろうと思えるような案ができると、美しいと思う。

あとは、純粋な人の気持ちにふれたとき、それを美しいと思う。人が困っているときにさっと手助けをするとか、猫がお互いになめ合っているとか、理性を介さずにすっと守ろうとする姿勢に純粋さを感じ、美しいと思う。

その美しいという感じは、清らかさにも近い。無駄なものが入っていない。エゴも見栄もくっついていない。理屈をこねくりまわしていない。ただそうである、という感じ。

だとすると、美しいの本質は「ただそうであること」なのかもしれない。太陽も、花も、猫も、そして人が人を無条件に助けるときも、「ただそうである」と言える。はたしてこれは普遍的な美しさの本質と言えるだろうか。わからない。

これまでの人生で最も美しいと思ったものはなんだろうか?
パッと出てこない。景色なのか、芸術作品なのか、なんだろうか。
私にとっては、そういう視覚的な物じゃない気がする。もっと人の気持ちに近いような、純粋さのような……。

モンゴルに住むマンホールチルドレンについての講演を聞いたことがある。寒さをしのぐためにマンホールの中で暮らしている子たち。いつもお腹を空かせている。だが、ビスケットをもらったとしたら、その子たちは自分で全部を食べないで持って帰り、マンホールの仲間たちとわけて食べるそうだ。その欲に負けない気持ちを美しいと思う。それが最も美しいかと言われるとわからないが、そのことを思い出すのは確かだ。

ブルーハーツの歌に「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という歌詞がある。これはどういう意味だろう。見た目でないことは確かだ。たくましさ、生命力か。

マンホールチルドレンも、ドブネズミも、共通するのはやっぱり「ただそうである」という純粋さでつながっている気がする。

だとしたら、私が私であること、ただそうであることは美しいことだと言えるだろうか。私はどうあると美しいだろうか。

むむむ、難しい。
ただ一つ言えるのは、書くことや考えること、探究することは、自分にとってとても自然なことで、それをやっている自分は、とても純粋な自分を生きている感じがするということ。それは私が「ただそうである」状態に近いと思う。だとすると、それを美しいと言ってもいい気がする。

文章の美しさを考えたとき、私にとっての美しい文章は、表現が優れているとか、文体が優れているとかではなく、どれだけ心のなかを言葉の器に入れられているか、だと思う。これも「ただそうである」に近い。感じたこと考えたことをそのまま言語化することは無理だと思うけれど、できるだけ近い形で言葉として出せること、そこに私はとても重きをおいている。とても大事に思っている。

理想を言えば、その原型に近い状態で出せた言葉を、少し磨いて整えて、無駄がなくなったと思えたとき、自分にとっての美しい文章ができあがる。自分にとっての美しい文章は、私が私であることの証でもある。

まわり道をするような文章を書いているけれど、自分にとって大事な領域を確かめながら歩いている感じがあって、今日のこの時間、このことについて考えられたことをよかったと思う。

次回の予定

次回は9/18(月・祝)に開催です。すでに定員いっぱいですので募集はないですが、もしご興味がある方は、Peatixの書くラボグループをフォローしてください~。


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