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文体とは、水泳選手がのこしていく水脈のようなもの

文体に関する本を10冊くらい読んだなかで、一番インパクトが大きかった本が江藤淳氏の『作家は行動する』だということを、先日書いた。文体についてはまだ引き続き自分なりの理解の途上にいるが、今日は江藤氏の評論本について、部分的に書いてみたい。



江藤氏のこの本の前半は、

「人間の行動はすべて一種のことばである」
「文体は書きあらわされた行動の過程――人間の行動の軌跡である」

と、力強く言い切りながら進んでいく。そうかそうかと納得しながら読む。
特に鮮烈な印象をのこす説明が以下の部分だ。

文体をかたちづくるということ、文体を完成するということは、作家たちが自分の主体的な行動によって時間をつくって行くということを意味する。
彼の太い腕が水をかき、彼の足が飛沫をあげる。その行為が時間をみずからつくりつつあるときの作家たちの行為であって、この場合文体は水泳選手がのこしていく水脈のようなものだといってもよい。
水泳選手たちが彼らの行動のあとに飛沫と水脈をのこしていくように、作家たちは自らの行動のあとに「文体」をのこす。いわば、彼らが周囲の現実と激突してひきおこす放電現象の火花のようなものとして、真の「文体」がある。

この水泳選手のたとえは、非常にヴィヴィッドにイメージが浮かぶのではないだろうか。

ではどんな文章が、そんな「飛沫と水脈をのこしていく」文章なのか? 作家が「周囲の現実と激突してひきおこす放電現象の火花のようなもの」とはどんなものなんだろうか?

本書の後半では実際に作家の作品を引きながら、どういう文章が「文体的」で、どういう文章は「文体的」じゃないのかということが論じられていく。

江藤氏は「行動していない文体」として、三島由紀夫をあげている。

「三島氏の文章にあらわれることばは、つねにものであることば、外在的な実体であることばである」

というように。ここでいう「ものであることば」は、「すでに完了した」もの、「顕在化」されたものだという。

(ものであることばとは)死語、形骸化した表現、辞書で整理されている単語、漢語、古語、文法の法則で権威づけられている表現、要するに、現在の流動的な、偉大な形成力をもった国語の生活力をまったく捨象したところにあることばを意味する。

同じ意味で、志賀直哉の文章も、「ものであることば」で書かれており、行動していな文体だと位置づけている。


逆に、江藤氏が行動する文体の例として上げているのが、大江健三郎、石原慎太郎、野間宏、椎名麟三、埴谷雄高、大岡昇平、武田泰淳などだ。そのなかでも、武田泰淳を最も突出した文体だと位置づけている。

こうして、われわれは、武田泰淳氏において、はじめて戦後派の作家たちのうちに真の散文家の資質をもった本格的な「小説の文体」を発見するということになる。


いくつかの武田作品から文章を引きながら、いかにそれが新しいかを論じていく。

武田氏の行動は、意識家の行動でもなければ抒情家の行動でもない。それはみずから進んであらゆるフィクションを排除し、「存在」の根元にひそむ衝動をえぐりだそうとする、真のヴィジョナリイの行動である。
武田氏はもっとも具体的な、ありふれたものから出発してたやすく「自然」の裏側にまではいりこんでいく。このような強烈な行動力をもった「文体」の所有者を、われわれはいまだかつてこの作家以外にしらない。
外側からスタティックな分析を加えれば奇妙キテレツこの上もない「ひかりごけ」という小説がいかに主体的な行動によって一貫し、「文体」的であり、有機的な統一を持っているかは自明であろう。この闇汁のような小説は、実はもっとも小説的な小説であり、もっともダイナミックな小説である。


少なくとも江藤氏のこの本の中では(この本を書いた時点の江藤氏にとっては)、小説家としては武田泰淳が一番「文体的である」作家としてとらえられているようだ。

だが、私の「わからない」はここにあった。江藤氏が引用している武田氏の文章を読んでも、「なるほど!」とか「たしかに」とはならないのだ。

ひとえに自分が文学的作品を読む素養がないことが原因なのだが、でも、引用されている文章を読んでもわからない。どうしたものか。

そこで、その引用されていた武田泰淳の文章を、全部ノートに手書きで書き写してみた。それからまた江藤氏の評論を詳細に読む。

そこまでやってみると、わかったとは言えないまでも、「どこかから持ってきた既製品のような言葉を一切使わずに、目に映るものの根底にあるものをえぐりだそうとしている」ということなんだな、と自分なりにいったん着地させることができた。

それでも、作品のごくごくわずかな部分を読んだだけで「わかる」にいたれるわけがない。そこで武田泰淳の『ひかりごけ』を購入し読むことにした。

読んでみてよかった、と素直に思った。
江藤氏の評論を理解できたという意味ではなく、純粋にそれまで知らなかった作品に触れることができ、しかもその作品が、私のイメージでいうと「自身の言葉で世界や人間を名づけ直す、編みなおす」ような作品に思えたからだ。

作品そのものは、厳冬の冬に遭難した船員が人肉を食べるという、人の精神のギリギリを描いている。その中での、人間の精神の動きをくっきりと言葉で象っているように感じる。特に最後の裁判のシーンのセリフ運びは強烈で、目の前で本当に見ているようだった。作品を論じられるほど読み込めていないのでそれ以上はやめておくけれど、この作品に出合うことができて本当によかった。

そうやって自分なりに作品を読んでみて、そこから評論を読むと、論じられていることをおぼろげながらつかむことができるという体験にもなった。

「文体ってなんだ?」という森のなかで「まだよくわかっていない」状態で彷徨っていることは変わらないが、「わからない」の質が一部分変化した。

こんな理解のしていきかたは時間がかかるけれど、時間がかかっただけ自分の中には「主体的に理解しようとした経験」として残っていくだろう。受け身で「わからない」と言っていてもきっとずっとわからないままだろうから。

ちなみに『作家は行動する』の著者の江藤淳氏は、「戦後の作家、特に第三の新人と言われる世代の活躍はこの優れた文芸評論家の存在があればこそ」と言われるほどの重要な人物だそうだ。吉本隆明、柄谷行人などにも大きな影響を与えている。

以前、中上健次の作品を読みこむ講座に行った際に、某大学の文学部の教授が言っていた。「戦後の文学に関しては、江藤淳の『成熟と喪失』、加藤典洋の『アメリカの影』の2つの評論だけは読んでおいたほうがいい」と。戦後、いかに「父権」が失われていったか、いかにアメリカの影がさしているかを知っておくべきだと。

『日本文学盛衰史』の影響で、先に明治・大正の文学をある程度理解してから戦後文学に進もうと思っていたので、2冊の評論は購入したまま読めていなかったが、この1年くらいの自分の興味の旗が立つ流れとして遠藤周作や小島信夫、中上健次などの戦後の作家が続いたので、このまま戦後の文学を先に学んでいこうと思っている。

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