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母の日によせて~「21年目の母の日」を読み返して~

21年前、当時中学生だった私。給食の準備をしている時間に、隣家のおばさんの顔が教室の入り口に見えました。その瞬間に、「ああ」と思いました。

「お母さんが危篤状態だから急いで病院に向かって!」

母はそれまでずっと入院していましたが、あまりに急なことだったので何も感じませんでした。家族が病室に駆けつけたときには、先生が電気の器具を使って心臓マッサージをしていました。そしてすぐに「ピー」という、心臓停止の音。人の死はこんなにあっけないものなのかと思いました。呆然としている横で、すぐに葬儀の準備の話が進んでいきました。

その日の夜、自宅の布団に寝かせた母の頬を触りながらいろいろ話しかけました。話しかけているうちに、目を覚ましてくれるんじゃないかと思いながら。もともとかなり太っていたのに、病気をしてからは20キロくらい瘠せ、ほとんど骨と皮のようになっていました。

翌朝、私はいつも通り登校しようと制服を着て家を出ていこうとしました。「クラスメートに同情をされたくない。母親を亡くしてかわいそうと思われるのがいやだ」と思ったのです。親戚の方々に今日はお休みしなさいと言われ、そのままお通夜を迎えました。お通夜の間も、悲しみよりはただただ非日常的な出来事に圧倒されているだけでした。翌日の告別式の後、火葬場で骨を拾っているときも、全然信じられなくて、きっとこれは夢か何かで、現実ではないだろうと思っていました。

それから一週間。何もできない日が続きました。ほとんど家から一歩も出ず、毎日ただただ泣いて過ごしました。母がもういないということが、現実としてじわじわ身にしみてきたのです。そしてそのときはその現実を受け入れることができませんでした。どうしたらいいかわからなくて、精一杯拒否していました。もう学校になんて行きたくない。ただ、時間を巻き戻して、母にあやまりたい。それだけを考えていました。

不思議です。たくさんの出来事の中で、私がそのとき悔やんでいたのは、ほんとうに些細な、たった一つのことでした。

母の死の前年の、とある日の夕方、胃をすべて摘出する大手術と長い入院生活を経て退院してきて間もない母に、「ちょっと胃が痛いから、せんたくものをたたんで」とお願いをされ、私は「やだ」と答えました。

当時は、毎日食事を作ったり掃除をしたりと、私はお手伝いをいやいややっていました。家庭のことは本来母親がやるものだと思っていたのです。そのとき母は、悲しそうな顔をして、「わかったよ」と言いました。私はそのまま自分の部屋に行ってしまいました。

母はあんまり人に頼るような人ではありませんでした。じっと我慢して耐えるタイプの強い人でした。なので、そのとき私にお手伝いをお願いしたのは本当につらかったのだろうと思います。

そのときのことを、今でもすごく鮮明に覚えています。そして、今でも悔やんでいます。当たり前ですが、失ってから気づいても間に合わないのです。

今、二人の息子の母になって思います。
大切な人にはいやな思い、悲しい思いをさせたくない。いつでも感謝の気持ちや大好きな気持ちを伝えたい。その瞬間瞬間を大切にして生きていきたい、と。

入院していた当時の母との会話で、とても印象に残っている言葉があります。「素直になってね」という母からの言葉。意地っ張りな私を心配していたのか、今となってはわかりません。でも確実に、母が私に残してくれた大切な言葉です。「素直」という意味を私は、「純粋にまっすぐに生きること」と受け止め、これからの残りの人生も歩んでいこうと思っています。

そして今だから、素直に言えます。

母へ。
私を、あなたの子に生んでくれてありがとう。
私を、私に生んでくれてありがとう。


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この文章は、2009年に発売になった

『102年目の母の日ー亡き母へのメッセージー』(長崎出版)

という本に掲載をしてもらった「21年目の母の日」という手記です。

当時まだ大学生だった、リヴオン代表理事の尾角光美さんとご縁があり、母の日プロジェクトを少しだけお手伝いさせていただきつつ、私自身の手記も本に掲載してもらえることになったのです。

母の日の今日、ふと「そういえば昔、母のことを書いたよな」と思い出し、昔のメールのやりとりから、自分の原稿を掘り起こしました(本はすでに手放してしまったので)。

改めて読み返してみると、今はなかなか、こんなにピュアな気持ちでは生きていないので気恥ずかしくもありますが、なつかしさとほろ苦さとが、こみ上げてきます。

母がなくなった年齢はとっくに追い越し、どこからどう見ても筋金入りのおばちゃんとなった今でも、当時の事はまだ結構鮮明に覚えているものです。いまだに母に「やだ」と答えたことを悔やんでいるし、さめざめと泣いていたときの、さらさらとした涙の質感と、そのとき使っていた白いタオルも、思い出されます。

でも。
その鮮明な記憶は、時間が経っても消えない悲しい記憶では決してなく、母と私の「つながり」なのだなあと、そういう気が今はしています。

今のところ私が健康で生きていられるのも、家族が大きな病気やケガもなく毎日のんきに暮らせているのも、母がずっと見守ってくれているからかもしれません。

母の日は、生きているお母さんに感謝を伝えるだけの日じゃない。
亡くなったお母さんとのつながりを、思い出す日、確かめる日でもあると思うのです。

お母さん、いつも見守ってくれて、ありがとう。
私は、私を、生きています。



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