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「書く」をめぐるインタビュー⑤~「書くことは、日常と紐づいた変容の旅」

「書く」をめぐるインタビューセッションを実施した。お話を聞かせてくれたのは、経営思想家の小森谷浩志さん。「禅×経営学」の観点を大切に、”いのちが喜ぶ経営”を探究されており、企業でのコンサルティングやコーチングだけでなく、大学で教鞭もとられている。

インタビューを終えて

実は小森谷さんとは、10年近く前からのお付き合いになる。当時私は、「フロー理論」を経営に取り入れるための「フロー研究会」や、実践家を招いての「フロー・シンポジウム」を開催しており、小森谷さんにも何度かお越しいただいたことがある。それからいろいろな機会を通して、「真に自分を生きる」ということや、「人を幸せにする経営」について対話するようなご縁をいただいている。

先日は久しぶりに小森谷さんのお話を伺って、「書くという営み」を深く見つめるような時間になった。最後の対話の時間、手元のノートに

「書くという営みをもっと大切にする。それは、生きることを大切にすることとつながる」

とメモしている。生活者として、悩み手としての自分がいて、一方で、書く人、表現者としての自分がいて。そこは切り離しえないものであるからこそ、丁寧に書くことが生活を大切にすることになり、丁寧に生活することが丁寧に書くことにつながるという、円環的なイメージが立ち上がってきた。

その他にも、書くときの自分の状態をどんな風に整えるか。自分を導管として現れ出たいものが現れるようにするにはどうしたらいいか。など、興味深いやりとりをさせていただいた。セッションそのものが円環的な時間であったように思う。


セッション内容のリライト

ご本人の許可を得て、セッションで伺ったお話のメモをリライトしたものを掲載する。このリライトは「記事」ではなく、ご本人に「セッションを振り返ってもらうためのもの」なので、話したままに近い内容になっている。

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今回、コロナになって、通常の仕事のサイクルではなくなり、色々なプロジェクトが延期や中止になった。そんななか、自分の使命というか、社会とどうかかわることが自分にとって気持ちがよくて、なおかつ、少しでもお役に立てるのかということを考える時間にもなっていた。

そのなかで、書いて表現するということが、自分にとって楽しいことのひとつだと再認識された。ワークショップなどの場をつくっていても、結局は芸術作品をつくっているようなイメージがあるので、書くことも芸術作品をつくることなのかなという感じがしている。

書いて発信することは、そこに「存在実感」がともなうことでもある。というのは、何も発信しないで、仕事もせず、外にも出ないで、それほどコミュニケーションもとらずとなると、他者とのつながりが薄まっていく感じがするから。

なので、書いて何かを発信すると、なにかつながりが持てるような気がしている。コロナになってから、そんなにたくさんではないけれどnoteも11本投稿した。学会もしばらく休んでいたので、報告をしようと思って予稿を一本書いて提出した。大学の論集も2つほど申込みをした(まだ書いていないけど)。さらに出版の企画書を書いて、本も思いつくところからざっくりとだが書き始めている。

そういう意味では、今までしばらくやっていなかった書くということが再開された状態にある。でもそれはただ楽しいだけではなく、なかなか進まなくて、そのスピードの遅さにもっとはやくできるんじゃないかという感じもある。働いていない自分に対する、自分をゆるせていない部分も少し感じているかもしれない。結構なまけものというか、そんなに勤勉じゃないので、ステイホーム中、家でゆっくりして、瞑想をしたり、マントラを唱えたり、気功をしたり、講演の録画を見たり録音を聴いたり、あとは本を読んで、そういったことで時間がある程度満たされていて。

なので、もうちょっと、書いて発信しようと思っている。発信した瞬間は、やった感というか、クリアしたみたいなうれしさがある。加えて、書くということのなかに、社会とのつながりというか、社会への貢献まではいかないにしても、何かしら影響を与えていくということも入ってくる。

書いて自分のなかが整理されるというのもすごくいいことで、これは結構大きいかもしれないな。コンセプトをつくったり思想をまとめるのが好きで、書くことを通じて自分のなかが整理されていくのは結構大きいなあと思う。

それが少しでも誰かの役にたったりすればなおよいかな。自分とつながりなおすということと、他者とつながっていくこと。他者の役にも、自分の役にもたつこと。書くことはそういうことにつながっている。

コロナ禍で、あっという間に半年くらいたっちゃっていて。なんか、たいしたことできてないな、半年あったらもっとできてるんじゃないか?という気がしていて。もちろん仕事はゼロではなく、ミーティングとかが入るにしても、やっぱり労働実感みたいなのは少なかったので、半年の間にいったい何をやったんだっけと、先日リストアップしてみた。

そのなかで、自分がわくわくすることや好きなことはなんだろうと考えてみた。もしくは、自分の天命みたいなこと。自分に課せられた使命、地球に生まれてきた意味につながるかもしれないけど、それは2つあって、1つは、人の変容に関わることや人の変容によりそうこと。もう1つは発信することだった。

なので、それをシンプルにやっていくということがいいのかなあと思っている。地球上に、心穏やかにいられる人、心穏やかな人が増えていくのは素敵なことだと思うし。インプットという刺激を受けながらアウトプットを出していって、それがいい形で、どっちかに偏ることもなく、自分のなかである意味腹落ち感があるという、ウェルバランスにいれるといいなと思った。

今、知り合いに出版企画書を見てもらいながら相談していて、出版社はまだ決まっていないんだけど、決まったらスイッチを入れて書き出そうかというところで、それがなかなか決まらないと、アクセルがぐっと踏み込めないままという感じはある。そうはいっても、浮かんだアイデアや、読んでいて興味深いというフレーズを書いたりはしている。

そういう状態で大前さんのfacebookを見て、書くということについて伴奏してくれる聞き手の方がいて、見つめなおして深めてみるというというのは意味深いものだなあと思い、それで今日にいたった。

半年の間ダラダラ過ごした感じがしてしまって、何をやったかをリストアップしてみて、半年のわりには少ないという気もするけれど、そこそこはやっている。新しいサービスやプログラムを立ち上げたり、そこそこはやったんだなと。そのなかで自分は何をやりたい人なんだろうということを考えているところ。

●これから発信に力を入れていこうというところで、何がアクセルを踏む妨げになっていますか?自分は何を誰に伝える役割と思っていますか?

個が個として自分につながるというか、本来の自分そのもので生きるみたいな、そういう人が増えていくと楽しいだろうなあ、素敵だろうなあという気持ちがあって、そのための伴走者でありたい、と思っている。自分とつながって生きているとか、本来の自分として生きているという感じ。それが個だけでなく、チームだったり、組織だったり、本来の自分たちとして生きている、ということも含めて。

「自分とつながって生きる」ということが、ある程度のコンセプトになって、ある程度のメソッドになって、いろんな人が使えるようになったらいいかなと思っていて。そうするとチームや組織が自分たちで使えるし、個人が自分に対してだけでなく、そのまわりの人も使っていけるようになるかもしれない。そういう連鎖が起きてくるということ、そういうのがいいなあと思う。

前半のメモを読み返してみて、「書くことが自分の内面へ与える影響」という気づきがあった。社会への発信が主要な感じがしていたけれど、実は自分の中が整理されたり、内面が整ったり、書くことを通じて「自分の内面への発信」と言うことに役立っているんだなあということが、20分の中での新たな発見だった。

自分の書き方は、哲学者的な書き方をしていることが多いかもしれない。結論が変わっていくというか、答えが出ないまま終わるとか、書き進めながら何かを探究とか模索とかしている感じが多い。外に向けて書いているというよりは、自分への問いかけだったりする。あなたはどう思うんだ、お前はどう思うんだという、自分への挑戦というか。なかなか自分で自分を論破できない。論破というか、本当の意味で腹落ち感があったり、納得できたりしていないというか。

何が書くことを妨げているのかというのは、スイッチが今一つ入らないというか、生活リズムの問題もあるかもしれない。やる気の問題というよりも、エネルギーの切り替えがスムーズにできていない。自分自身を書くモードに切り換える儀式のようなことができていなくて、なんとなくダラダラと本を読んだり、ミーティングに入ったりをしていた。

たとえばこの日の何時から何時までは書くことに集中しようという、自分の持っていきかたというか、締め切り効果みたいな感じかな。学会の報告の予稿は締め切り効果があった。それだと書き切れるなと思った。

●社会に向けて発信していく以外に、ご自身の内面の「ぐじゃぐじゃしたもの」についても書いたりはしていますか?

それは相当していて、ぐじゃぐじゃをきちんと表現していくことをしたい。それをしないと人の変容に関われない。最終的には理想論、きれいごとみたいなものにまとめあげられるのかもしれないけど、そのためにぐじゃぐじゃの過程を見せていくのは大事なことというか、それしかないという感じ。

今回の本は、禅の十牛図を今の時代で読み解いていくというか、自分が段階を進む中でぶちあたっていく壁とか妨げみたいなことを、きちんと表現していくことをしている。それを、自分の体験を通して語ることもあるし、こういう人にこんなことがあったと語ることもあるけれど、他の人の体験でも、同じようなことは自分の中にもあって。自分のなかのパーソナルストーリー、これが肝になるだろうと思っている。大きく言うと、羅針盤というか座標軸と言うか、なんかそんなものが提示できたらいいなと思っている。

書くということはすごく探求だなあ、書きながら思索が進んでいくことはあるなあと思う。結論ありきではなく。物語とか漫画の作者が主人公が勝手に語り始めるというのを聞いたことがあるけれど、そうなったとき、なんか、いきいきとする気がする。命が宿り始めるというか。

書いている最中にも生活は進んでいて、いいこともあり、トラブルもあり、人からの学びとか人間関係のこじれとか葛藤とかも起こる。そういう意味では、何が書くことを妨げているのかということに関してもっと考えてみると、たとえば、印税だけで生活できる著述家になりたいかというと、著述家ではないんだなと思う。

コーチングやワークショップ、一緒に仕事をするなど、日常生活も含め、誰かと接することをしながら、そこでぶつかりながら起こること、生まれるものを赤裸々に発信するという、どっちの時間もとっていくということをしていきたいんだろうと思う。ワークショップやプロジェクトが頓挫したから、ぽっかりあいた時間に書きましょうということではない、という感じかな。リアルな場も日常も良質に過ごせているからこそ、書く方も良質にできるというのはあるかもしれない。

自分は結構家の中にいるのが嫌いじゃないので、そういう意味では書くことのボリュームが増えていくことは、苦痛ではないというか、むしろ喜ばしいことかもしれない。ただ、やっぱりテーマは人の変容とか、人たちの変容に関わることなので、そこに関わってないとやっぱり書けないというのはある。

哲学者は自分のなかの思索に入り込んで書けなくはないかもしれない。でも、宗教家の人も洞窟にこもって瞑想だけしているかというとそうではなくて、日常生活の中での気づきが、自分自身の宗教観を深めていくだろうから、そういうのと近いと思う。日常と切り離した書くという領域があるのではなく、自分の生活感、生活そのもののなかで書いていくこと、そういうことが、大事だと思っている。

今朝、つまんない話だけど、これだけ天気がいいからカーテンを洗うには最高かなと思って、リビングのカーテンを洗いたいと妻に言ったら、「シミもついているし新しく買ったほうがいい」と言われて。私はそれには反対で、まだ全然使えるし洗った方がいいんじゃないと思ったけど、それは、私はそう思うっていうだけのこと。実際に、洗ってさっき干したのだけれど、そういうやりとりも含めて、昔だったらもっとむかついてしまっていたと思う。

今はそういう考え方もあるんだなというくらい。そういうちょっとした心の機微というか感情のゆらぎというか、ささいな日常のひとコマだけど、そういうのはちゃんと感じるようにしたい。カーテンがきれいになれば、妻だってうれしくないことはないはずだし、私は私で納得する。1年は洗っていないであろうカーテンを洗って天日干ししたら、それはおそらく気持ちよくて、リフレッシュされたというか、さわやかになったと感じるだろうというのはまちがいなくあるわけで、洗うことでヘンなことは起きない。

だから、感情はゆらぐといえばゆらぐけれど、おだやかな範囲の中でゆらぐという感じ。激高するんではなく、怒り心頭でもなく、ジャッジするんでもなく。10年前だったら「金も稼いでないくせに何を言ってるんだ」と思っていたかもしれない。

自分の内面を整えるということは、生活をしていく上で、生きていく上で何かしら役に立つと思う。いつも穏やかでいなさいということでは全然ないけれど、いろんなことを感じる感性、みずみずしさ、感情の上下を味わいながら、でも何か自分と一致した生きかたというか、そういうことを発信していけるといいのかな、と。

またここまでのメモを読み返してみて思うのは、書くというのは、日常と離れた何かではなく、日常と紐づけられているということがキーだと思った。

●円環的な感じがしますね。小森谷さんにとって「人の変容」とは?

自分と一致するということ。自分の軸を立てるとか、自分の価値観をクリアにすることとはニュアンスが違っていて、もっと大きな自分に気づいていくというか。自分を超えたものとのつながりに気づいていく。より全体性、ホールネスを実現していくというか。自分を超えた自分になる、なっていく。仏教でいえば悟りに近いだろうと思う。本当の意味で宇宙とか自然と調和的に生きると言うか、ハーモナイズされているような、奏で合っているような、そういう自分が顕現されていくという感じ。

その過程で自分の価値観をクリアにしていくことも起きてくるかもしれないけれど、価値観のワークとか、自分軸とかビジョンとか、そういうことではない。人は変容の旅を続けているんだと思う、死ぬまできっと。死んでも、かもしれない。

●人の変容を妨げているものって?

変容を邪魔しているものは、俺が俺がみたいなエゴと、おそらく、比較とジャッジかな。そういう意味では、「部分的」になってしまっているんじゃないか。全体的ではなくて。あと、つながっていなくて離れている。分離している。変なプライドとか、固執したりとかもある。

●スピリチュアルの方面に行っても、一般的な世界で優秀だった人ほど、上に行こうとする人も多いですよね?

師匠を変えて「今度こそ本物」と言っていても、実は同じカゴの中にいるだけで、上に立つというゲームのルールの中でやっている感じなのかな。マインドフルネスとかはわかりやすい。ようは生産性をあげて、クリエイティビティをあげて、同じルールのなかで優秀なプレーヤーであろうとしている。それは同じゲームの中の住人だということでしかない。ゲームチェンジャーになるか、ゲームそのものをやめて違う世界に行くかが問われている。違うゲームを生きていくことが本質なのに、マインドフルネスはミスリードする可能性がある。脳科学や量子力学を持ち出して、そうするとみんな黙る。

多くの場合、幻想の世界で生きてしまっているわけなので、そこから本当の意味で目覚めるということが、覚醒とか自覚といわれることだけど、本当の意味での変容は、ゲームそのものに疑いをかけるというか。ルールを変える、ルールの外に出る、構造そのものに疑いを持っていくことが必要になる。

何をいいと思うか、誰をいいと思うかは別として、自分がいいと思ったものを正しいと思いたいから、信奉して人にも勧めたりするとか、そういう態度が問題で。〇〇さんを新しい信奉者としてまつるとか、そういうことに限界があるというか、つねに健全な懐疑心を、どんなに有名な人に対しても持っていることが大事だと思う。

そうでないと依存が生まれるだろうし、依存するということは自分としていきていないということで、自分と一致する生きかたから離れることになる。十牛図は、自分としてより大きな自己になっていくことを、絵を通して伝えようとしてくれている。

カントの「純粋理性批判」で、「人は決して外すことのない眼鏡を持って生まれてくる」と言っていたけど、そのメガネそのものを見ること、度があっているのか、ゆがんでないかとか、そういうことを見ていくことが必要だと思う。

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インタビュイーの感想

facebookのコメントなどを通して、こんな感想をいただいた。

聞いていただくこと、書いてみること、その二つの往還が、円環となって、つながっていく豊かな時間でした。書くことで広がる可能性を実感する時間でした。まさに澄んだ泉のように聞きとどけいただき、引き出してもらいました。
私にとって、コロナ禍に入ってからの約半年を振り返るよき機会となり、自分がやりたいことと、社会とどうつながっていくのか、自分と一致した生き方、あり方について見つめ直す機会ともなりました。貴重で素敵な時間をありがとうございました。


あらためて「書く」をめぐるインタビューについて思うこと

このインタビューセッションを始めて、1人、また1人とお話を伺っていくうちに、自分自身の「書く」の世界が豊かになっていくような気がしている。それは、書く技術という意味ではなく、書くときに見つめる世界が、とても広く深くなっていくということだ。これは、ぴったりする言葉が見つからないが、とてもありがたいことだ。

さらに、お1人お1人の「書く」には、その人ならではの「どのように生きたいか」が映し出されていて、その人の人生を少しだけ一緒に歩かせてもらったような気がしてくる。

それは裏を返せば、「自分はどのように生きたいか」を問われることでもある。今回、小森谷さんのお話を伺いながら、自分自身がパーソナルクレドにしている「澄んだ泉のようなあり方」ということを改めて思い出した。その泉のように静かに聴けているか、いつでも自分に問いかけていきたい。


8月のインタビューモニター、残りは2枠で、8月18日(火)、8月22日(土)です。「書く」ことに興味がある方なら、どなたでも大歓迎です。
※別の日程でも、ご希望とこちらの予定があえば、実施可能ですのでお問い合わせください。

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