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呼吸と精神を感じるべし。丸谷才一『文章読本』を読んで

人がいいと勧める本は「ひとまず」買ってみる方だ。
もちろん、誰が言うかにもよる。いや、ほとんど誰が言うかによる。

「ひとまず」と書いたのは、買いはするけれどすぐに読むかどうかはまた別の話ということだ。ほいほい買う割には、すぐ読まないことも(が)多い。

届いたときにパラパラと見ても、持った瞬間に「 spark joy!」しないと、積んだり仕舞ったりして、そのままになってしまうことも(が)多い。

本との出会いというのは、その人その人で、ベストなタイミングとご縁がある。おそらく本を読まれる人は、多かれ少なかれそんなことを思っているだろう。

だから、購入したというのはご縁があった本ということだ。あとは、ベストのタイミングで本の方から呼んでくれるか、自分の内側から何かがつきあげてきて、ぴょん吉のように私をその本に導いてくれるものだ、と思っているがどうだろうか。


このところ毎日エッセイを読んでいる。
誰かに勧められたわけではないが、たくさんいる魅力的な作家さんの作品をあれこれ読んでいる時間がないのと、エッセイであれば1つひとつの文章が短いので小刻みに読めるから。そしてnoteの書き方の参考にもなるからだ。

最近は、小川洋子さん、井上ひさしさんの本をWで読み進めていたのだが、お二人ともなんとも勧め上手で参った。エッセイの中で勧められている本をついついポチポチ買っていたら結構な量になってしまった。

おそらく多くの本が、積読山脈に埋もれるか、本棚でじっとしているかになってしまうだろうけども、そのなかで届いた瞬間に飛びついた本がある。


井上ひさしさんは、「現在望み得る最上かつ最良の文章上達法とは」というエッセイの冒頭で、この問いに答えるにはただの1行で済む、と言ってこんな風に書いている。

「丸谷才一の『文章読本』を読め」
 とくに、第二章「名文を読め」と第三章「ちょっと気取って書け」の二つの章を繰り返し読むがよろしい。これが現在望み得る最上にして最良の文章上達法である。
 以上で言いたいことを全て言い終えた。あとは読者諸賢の健闘を祈る。

このあとに、そうはいってもと説明が続くのだが、なるほど、このように言われるとすごく興味をそそられる(そして、この書き出し方は、丸谷氏の第二章の書き出しをなぞっているところがまたにくい)。

丸谷氏の本は、旧仮名づかいで、古典や漢文も引かれていて、やや読みにくいのだが、井上ひさしさんが「読め」という章だけ読んだ。

第二章の「名文を読め」では、名文が与えてくれるものとして、3つのものを上げている。

1)言葉づかい
先人の語彙を意識の中に収集しておくことで、それを使うことができるという。私たちは、全く新しい言葉を作ることはできない。できるのは、在来の言葉を組み合わせて新しい文章を書くことだけだ、と。

2)正しい文章の呼吸
書くのに必要なのは語彙だけではない。名文を読むことは正しい文章の呼吸を伝授してくれるという。呼吸と言っても、口調、調子、メリハリ、姿などの総体に、「論理とレトリックを打重ねたようなもの」でも、まだ足りない。「生気を帯びた実体である」とのこと。

これは納得だ。プロの翻訳者はこの「生気」を訳出してくれるが、たまに翻訳者でないビジネスパーソンが訳した本などで、本当にひどい呼吸の文章のときがある(が、これはまた別の話ですね)。

3)筆者の精神の充実 
筆者の精神の充実とは、筆者がその文章を書いているときの、気魄、緊張、風格、豊かさなど。

われわれはおのづから彼の精神の充実を感じ取って、筆者が文章を書くことを信じてゐる信じ方に感銘を受け、やがて自分もまた文章を書くことの意義と有用性とを信じるのだ。これこそは名文の最大の功徳にほかならない。


1)、2)は、うんうんそうだよなあと思いつつ読んでいたが、3)のところで感動してちょっと泣きそうになった。そう、読むことで私たちはそういう精神を受け取っているんだよ、と深く得心した。

では何を持って名文とするかというと、

「君が読んで感心すればそれが名文である」

と書かれているのだが、もちろんそれで終わりではなく、筆者が名文だと思う石川淳や佐藤春夫の文章を上げ、その理由も説明されているので、興味がある方はぜひ手に取って確認してみてほしい。


続く第三章では、「思った通りに書け」と、当時広まっていた文章訓に対して、「わたしに言わせれば大変な心得ちがひである」と言っている。

その理由として、まず、心に浮かんだものをそのまますらすら書くというのは、判りきった話でなければできないし、そんな話は改めて文章にする必要はない。

通常、われわれが文章を書こうとして苦心するのは「ある程度以上こみいったこと、極端に貧弱ではない内容、かなり厄介な事柄」を文章にするときだ。しかも、そういうことを思った通りに書くためには、一切の雑念を追い払う必要があるが、これはよほど修養を積んだ人でないとむづかしいことなので、あきらめた方が賢いのではないか、と丸谷氏はいっている。

だが、実は思った通りに書く方法が一つあるという。それは、「書くにふさはしいやうにあらかじめ思うことである」と。

心に思う思ひ方が巧みであれば巧みな文章、まづければまづい文章が書き記されるだらう。
書くにふさはしいやうにあらかじめ心に思ふ思ひ方がある。(中略)文章の型を学び、身につけ、その型に合わせて思うことがそれである。すなはち一切は、前章で述べた、名文を読めという心得に帰着するだらう。

その理由として森鴎外や志賀直哉などをあげているのだが、それもよければぜひ手に取って読んでみてほしい。志賀直哉の文章は、あちこちで名文として取り上げられることが多いが、当時、芥川や漱石などでさえ「どうしたらああいう文章が書けるんでしょうかねえ」と話していたそうだ。


この第二章と第三章を読んで、とにかく深く頷いてしまった。
というのは、つい先日、自分が書いているときに感じる「不完全さ」について、何をしたらいいかもやもやしていて見えないということを思っていたのだが、その「もやもや」にシュパッとヒントを与えてくれたからだ。

書いていて、ぴったりする言葉が出てこなくて止まる瞬間が多々ある、ということは、自分の中にそのための語彙が足りていなかったり、正しい文章の呼吸が整っていないということだ。そうだ。間違いない。

そこは、まだまだこれからたくさん読んで、「書くにふさはしいやうにあらかじめ思うこと」という、一つの自分なりの型を身につけるといいのだなあと、自分の感じていた「不完全さ」との折り合いがついた。

「学ぶとは模倣することだ」と、あちこちで耳にするのでもはや最初に誰が言ったのかわからないが、いくら模倣をしたとしても、コピーをしない限り、書き手の個性は出てしまうものだと井上ひさしさんも言っている。大切なのは「誰の文章を好きになるか」だと。

ということで、今日も好きな作家さんの本を読み、筆写をしながらその文章の呼吸を身体で感じるのである。

それにしても、井上ひさしさんが推すだけあって、丸谷才一さんと井上ひさしさんの文章の呼吸はとても近しいものに感じる。リズムよく、小気味よく、ひねった遊び心がちりばめられている。


『文章読本』は、丸谷氏以外にも、これまでいろいろな人が出していて、一応、今手に入るものは集めたので、それぞれの人の主張を比べてみたい。同じ部分と違う部分を見比べて見たらおもしろいなあと思っているが、さて、そんな時間は来るだろうか、どうだろうか。

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