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わからないの森から出よう。 橋本治さんの『「わからない」という方法』を読んで

本を読んでいるときのあるある。
何かの本を読んでいて、その本の中で言及されている別の本を手に取り、その別の本の中で触れられているほかの本をまた手に取りと、A→B→C→C´→D→Eと横滑りしていって、どれも読了できなかったり、もともとAやBの本を読んでいたことさえ忘れてしまったりということが多い。

「ことば」と「文体」というのがここ最近の本を選ぶときのテーマなのだが、高橋源一郎さんの本を読んでいたらふと内田樹さんの本が気になって、内田樹さんの本を読んでいたら、橋本治さんのことが取り上げられていたので橋本さんの本に目を通して、橋本さんの他の著作が気になって手に取ったのがこの本だ。

内田樹さんが本の中で、橋本治、三島由紀夫、村上春樹の3名を「説明する能力」が非常に高い作家として例に挙げていた。この3名の中で、橋本治さんの本はまだ一冊も読んだことなかった。なので橋本さんの「説明する能力」がどんな感じなのか知りたくて『橋本治のかけこみ人生相談』を最初の方だけ読んでみた。読んでいるうちに「こういう文章好きだなあ」と思い、タイトルが気になったこの『「わからない」という方法』にも手を出したのだ。前置きがくどいかしら。

橋本さんの著作はジャンルがバラバラで、文体もそれぞれに違うと言う。編み物の本から『枕草子』などの古典の現代語訳、小説や時評、脚本などいろんなことをやった作家さんだ(2019年に逝去されている)。

橋本さんは「どうすればそんなにいろんなことがやれるんですか?」と聞かれたら、その理由はひとつしかないと言う。

「わからないからやってみよう」とか、「こんなにも ”わからない” と思ってしまった以上、自分のテーマにするしかないな」などと思う。

その「わからない」感じ、わかる気がする!と思った。「わからない」と思った時点で、何かがひっかかって気になっている状態なのだ。見えていないけれども、見たいと思っているのだ。

「わからない」ということが、ここ数年自分にとって本当に大きなテーマだった。何がわからないのか?というと、「何がわからないかがわからない」。霧の中、闇の中、森の中を歩いているような、どこに向かっているのかわからない、ただなんとなく身体が「こっちのような気がする」という方向に足を進めているような時期がしばらく続いている。

もちろん「何」をしているかは自覚している。だが、その、それぞれ一つひとつの取り組みが、全体としてどういう方向に向かっているのか、全体として何をなそうとしているのかが自分でもよくわからなかったのだ。

読み始めて、これは懐中電灯のように助けになってくれそうな本だとピンときた。そんな自分のここ最近の状態が書かれていたからだ。

なぜまとまらないのかと言えば、全体像が「わからない」からである。「わからない全体像」は、まとめようがない。「わからないんだからわからない」である。しかし、この「わからない」の全体像をまとめる方法が一つだけある。それは、「自分はどのようにわからないのだろうか?」と考えることである。
人生とは「わからないの迷路」である。だから、そのさまざまに存在する「わからない」を、まず整理しなければならない。「木を見て森を見ず」とは言うが、「わからないの迷路」に圧倒されているだけの人間は、その逆の、「森を見て木を見ず」なのである。
巨大なる「わからないの森=混沌」は、その実、「わかりうる一本の木」の集大成であって、「こんなくだらないものの答が全体像の解明につながるはずはない」と思えるようなところに、「わかる」へのヒントは隠されている――そう考える以外、確実な脱出方法へつながる道はないのである。

私はよくnoteを書いていて「森に迷い込む」という表現を使う。「何がわからないかわからない」状態のままでいるときに使うのだ。でもそれは単に「森を見ているだけ」「わからないの迷路」に圧倒されていただけだったんだ。何か一つの「わかる木」を手がかりにして、その次の木、またその次の木という風に進んでいけばいいのではないかと合点がいった。


さらに、これまで一見関係がないと思えるいろいろなことに手を出して、中途半端なままにやめてきたことに関しても、ずっと消化不良な感じがして持て余していた。それが無駄だったとは思いたくないし、自分では「やめた」とは思わずに、あるところまで「経験した」と思おうとしていた。

その人のやった「いろいろなこと」とは、壁にぶつかったその人が示す、挫折の数であり、試行錯誤の数でしかないのである。
挫折は、自分の力の及ばなさの結果である。だから、強くなって力をつければいいのだが、実際はそう単純なものではない。挫折というものは、自分がふるおうとする力と、その自分を取り巻く現実との空回りによって生まれるものだからである。

そのとおりだ。まさに試行錯誤と挫折。力及ばずでやめたことがたくさんある。「空回り」の自覚もたっぷりある。

どのウサギを追っていいのかがわからない時は、とりあえず、十兎くらいのウサギの群を追うしかないのである。「このうち一羽くらい捕まえられればめっけものだ」と思うのが、なんにもわからないところからスタートするドジな初心者の心得であって、(略)
「努力を空回りさせたくない」と思う人間だけが、「わからない」の掘り起こしをするのである。

そうか、十兎を追うことはそれはそれで、そうせざるを得なかったのだな、と自分で折り合いがついた。必要なのはやっぱり「わからない」のまま、さ迷っている状態から脱することだ。

じゃあ、具体的にどうするか。

私の根本にあるのは経験主義である。わかる前に、経験してしまう。経験しないと、なんにもわからない。「経験した」ということは、「わかるための材料を集めた」ということで、「経験した」だけでは、まだなんの意味もない。その「経験したこと=知り得た知識」を基にして再構築をする――「わかる」とは、その再構築の作業なのである。
徐々に身体を慣らして行って、なんとなく「こんなことかな?」と思った時から、「経験」が始まる。「経験」がスタートすれば、「ある確信に基づく探索」が始まる。これこそが「経験」で、経験とは、「何を経験すべきかを探りながら、経験すべきことを経験する」なのである。

noteを始めたときがまさにそうだった。毎日一定の文章を書くことに身体を慣らそうと思ったのだ。そのうちに「何を今経験すべきか?」が浮かんでくるはずだという「勘」のようなものがあった。今もまさに「何を経験すべきかを探りながら、経験すべきことを経験する」の途中だ。でも、それは日々いろいろなヒントやひらめきを与えてくれている。想像以上に。


なにかをするに当たって、「めんどくさい」は当然のことだと思っている。「めんどくさい」のは事実だから、「めんどくさい、めんどくさい」とは言うが、私は、「めんどくさいことをやる」ということに関しての覚悟ばかりはできている。私には、それ以外の方法がないのである。私の「わからない」や「できない」は、その下地の上に載っている。

めんどくさいことをやることでしか、わからないの森から出ることはないのだろうなというのはまさにそうだと思う。おそらく、めんどくさいことを避けてきたから今自分は森に迷い込んでいるわけで、「一本の木をわかる」ということを重ね、自分の足で、「わからないの森」の外に出ようと改めて思った。

私は、自分の脳はあまり信用していないが、自分の身体性だけは、全面的に信用しているのである。信用して、「俺の身体は頭がいい」と、マジで思っている。すべての経験と記憶のストックは、私の身体にキープされているからである。

私も、自分の脳は信用していないが、身体にキープされているものを信じている。そして、さらにその奥の、普遍的な領域とつながっているpathの存在も信じている。それこそ試行錯誤と空回りをしながらもつかんだ「経験」がその存在を教えてくれたからだ。

今日の投稿は、自分のために書いた。
OK、たしかにそうだよね、とこれまでの自分を受け止め、じゃあ次どうする?と、明日以降の自分に問いかけるために。

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