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カタツムリのような螺旋的学び

先日、町田康さんの『くっすん大黒』を読んだ。2年前、長男が浪人中に小説を読むようになったので(予備校の先生に言われたらしい)、「なんとか賞」を受賞したような小説を何冊かまとめて買ったのだ。当時は私も手にとったのだが、文章のリズムが合わないなあと思って、数ページで脱落してしまった。

先日ふと、あれだけ個性的な文章はあまりなさそうだよなあと思い、手に取ったのだが、いやいやおもしろかった。意識の流れと、映像の流れが、自然に自分の中を通っていくような。

結局、読む側の「枠」というか、「キャパシティ」というか「レディネス」の問題なのだなという気がしている。総じて「タイミング」というか。

小説に限らず、以前読んでまったくわからない、歯が立たない、と思って途中で投げ出した本でも、2回目になると「なるほど」と思える箇所が出てきて、氷が解けるように少しずつわかってくることもある。それは集中的にある分野の本を読んでいるときに多い。その分野に関連する背景知識が増えるから、理解の筋力があがっていくのだろう。

ただ量と速さだけを求め、手っ取り早く結論を知ろうとするような読み方でなく(残念ながら昔はそうだった)、著者が何を言おうとしているのかを丁寧に「聴き取るように」本を読むことを積み重ねていくと、今まで聞こえていなかった声が聞こえるようになり、受け入れられずに弾いてしまっていたものが受け入れられるようになり、一度に抱えられる範囲も広くなるので、以前触れたものがまったく違って感じられるということもある。これは本だけでなく、漫画も映画もそうだ。

残念ながら逆もまたしかりで、前はすごくおもしろかったものが、2回目以降はただおもしろいだけでしかない、と気づいたりする悲しさもある。

よく「学びは螺旋」と言うけれど、ぐるーっと学びが戻ってくると許容量が増えて精査の質があがっているので、もう一回学んだことについての「全部の質のとらえなおし」みたいなことが起こる。

「あー、また最初からかー」とちょっとがっかりするんだけど、でもその「最初」は、螺旋の1周前の「最初」とは位置が違くって少し上にあがって(深くなって?)いる。だから感じるものも見えるものも、同じ最初からでもまったく異なる。

カタツムリのようにのろのろでも、触覚を伸ばしながら、じっとり進んでいこうと思う、梅雨の日の朝。

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今日は更新できるタイミングがわからないので朝の内に。

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