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食べるということの不思議


 食べるという行為に不思議があるような気持ちになれたので、言語化してゆこうと思う。

 今まで、私にとって食べるという行為は汚いものであった。自分が生きていることをあまり意識したくなかった私にとって、食べる行為は「生」を意識させる煩わしいものだった。それなのに、食べたいと思おうし、もっと言えば美味しいものを食べたいと思う。食欲は欲求であるし、空腹時に食へと人間を駆り立てる衝動の強さは性欲を彷彿とさせる。というか、身近に食べ物に卑しい人が居た。いつでもご飯の話ばかりするし、食事をどうするかについてはやたらと声をかけてくる。空腹時は機嫌が悪く、ご飯を食べた瞬間に機嫌がコロリと変わる。誰が何を食べたのか確認したり、食にありついた時の作法は動物の様だった。そういう人が身近に居て、食べるということが好きだし、食べることをやめられないくせに、食べるということへの嫌悪感を長年捨てきれずにいた。

 そういう背景の中で、私は一人の男性に出会った。その人は私の恋人になった。その人は、大食いで、私より多い量を私より先に食べ終わる。食べることが好きな人。私がクッキーを作ってあげると、つい食べちゃう、また作ってと言う。仕事で余裕がないというので、せめて栄養のある食事を摂って欲しいと思い、手料理をタッパーに詰めて渡したら、全部おいしいと言う。そんな事が何故かホッとする。もちろんそこには、恋人だからという事情も入ってくるとは思うが、食べるという行為自体の不思議も関与している様に思えた。

 作ったものをプレゼントとして受け取ってもらうのと、作ったものを食べてもらうのは違うことの様に思える。例えば、私は節目の際に、手紙を書いて(作って)、渡し、それをいつも嫌がることなく受け取ってもらう。この事態と、手料理を食べてもらう事はどうも感覚的に違う。以前受けていた、幼児教育の授業で「食べる」という行為が取り上げられていた。その際、子どもが作った泥の料理を食べたふりをすると子どもが喜ぶというような話があったような気がする。同化が行われているとかなんとか。確かに、行為というのは人間の表現であり、手料理も私の人間性から生まれてくる表現の一つであることを思うと、その表現された私性を食べて体内に取り込む事は、ある種の同化なのかもしれない。なんか言語化したらめっちゃ気持ち悪い気がするが…。ただプレゼントや、表現した何かを受け取って受け止めてもらうのとは何か違う。それを体に取り込むということは、深みが違うと思う。
 
 体内に取り込むというのは常にリスクを伴う。それが猛毒であったら死んでしまうし、自分がアレルギー反応を起こしてしまう食べ物も死のリスクがある。食中毒でも、死者は出る。食べ物で体調が悪くなることもある。この現代では、食べるということのリスクをついつい忘れてしまいがちだけれども、おそらく体の奥底には、食べ物に対する危機感の様なものは動物として備わっている様な気もする。知らんけど。そう思うと、生命的なリスクを顧みずに、自分の作ったものを受け止めて、それを体内に取り込むというのは、料理を作ったものとしてはなんとも言えぬ嬉しさの様なものがあるのかもしれない。

 行為というものは常に表現であり、常に「生」の真っ只中にある。表現は誰かに対して存在する。それは対自分でも良いし、他者でも良い。表現は自分を動かすこともあり得るし、他者を動かす可能性もある。「おはよう」と言えば、相手も「おはよう」と表現し返す。ただそれだけのことでも、朝が始まったと感じさせ、その人を一日の始まりへと動かすかもしれない。「生」の真っ只中にある行為である表現は、その重要度合いは相対的な差があるにせよ、他者の「生」をなんらかの形で動かし得る。作った食べ物を食べてもらうというのは、もっと原始的に受け取り手の「生」に関与してくる。だから自分の表現したものを食べてもらうのは、根源的で重大なことなのだと思う。

 分からないけど。なんとなく食べる事は不思議だととても感じたので、思いつくままに書いてみた。食べることについてもう少し注目して日々を暮らしてみようと思う。