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人と人とをつなぐ場所

なんてことはない、友人の文章を読んでいてそういえばそんなこともあったなと思い立って筆を取っただけである。

今となってはもう5年前のこと、ただその事実にゾッとするのだが、推薦入試というものは一体全体世間の人間はどうやって対策をしているのだろうか。それを、未だに教えてもらいたい気分である。

集団討論と面接と作文とその三つでもって評価されるんだという。得点の開示なんてものが出来るなどとは露知らず、結局私は自分の点数の分からないままに高校生活を終えてしまったので、果たしてそのうちのどれが評価されて、一体どの程度の点数で合格したのかなんてことは全く分からない。とはいえ、感触からすればそれなりにはどれも取れているんじゃないかなんて思っている。


作文というものは、どうやらある程度お作法のあるものらしい。けれども、いや、未だにだが、当時それを知りもしなかった私はただ気分の赴くままに筆を走らせた。
テーマは「駅」。私が昔住んでいた、国立の駅舎について書いたことだけは妙に覚えている。それがなんてことはない、完全なるフィクション、つまり物語であったからかもしれない。思い出と称して何かを綴ったことは覚えている。内容はまるっきり覚えてはいないのだけれども。

高校入試を、推薦入試で突破してしまったものだからこれが大変だった。つまり、「学力」の試される試験などと全く無縁のまま大学入試を迎えてしまったのである。勉強の習慣なんてついてるわけもない。ましてやつける気もない。それでもまあ、国公立にでも行ければいいか。その阿呆の発想である。無知の恐ろしさを入学当初の私はまるっきり知らなかった。

高校生活といえば、なんだろうか。薔薇色の青春なんてものは幻想だろう。頑張ったことはなんですか、なんて聞かれたところで、自信を持って答えられるものはない。クラスには非協力的であった。一年の時の担任の先生は嫌いではなかったが、クラスはあまり好きではなかった。一年の時のことは記憶の彼方にあって、どうも欠片も覚えていない。久しぶりに片付けをしていて卒業アルバムが出てきて、それを眺めてみても浮かばないのだからこれは重症である。文化祭の時だってクラスにはいなかったような記憶がある。あれ、記憶あるじゃないか。なら大丈夫だ。
二年でクラス替えがあって三年はそれと同じクラス。そこまで行ったってさほど覚えてはいない。数学にとんでもなくわかりにくい先生がいたことと、授業を受けてはいないけれども面白い世界史の先生がいたことくらいは覚えている。後者にはなんだかんだ言って受験の折にお世話になったからというのもあるけれども。
何かを書きたいわけじゃない。だからこう、冗長としたモノが出来上がる。目的をもって行動するのは大切だろう。けれども、目的もなく無為に時間を使って、無駄な労力を費やすのも悪くは無いだろう。

駅とは、人と人とをつなぐ場所。そんな言葉ではないけれども、そんな雰囲気の言葉を描いていたような気がする。むしろ、駅とは、人と人とを分かつ場所の方が今の私にはしっくりくる。一人暮らしを始める時、新横浜の駅のプラットホームで両親と別れた。帰省する時も、普通に家に帰って、一人新幹線のホームに立ったり、旅費を節約したい時には新宿やら東京やらで深夜にちょうど差し掛かった辺りにうろちょろとしている。

駅とは、旅情に終わりを告げる場所。
駅とは、旅情に命を吹き込む場所。

駅とは、日常の1ページ。
駅とは、非日常の1ページ。

どんな作文を書いたんだろう。あの時の僕に聞いてみたい。

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