それでも書き続けたい
毎日何かしらするべきことがある。朝になればやるべきことが見つかって、今日も数冊参考書を机に置いた。一杯のコーヒーと落ち着いたメロディーをかけて、今日も始まる。
ここ数週間は慌ただしい日が続いた。気付けば、春はもうすぐそばにあって、あと2か月眠れば植物たちの風に包まれる。そんな中で、毎日何らかの思いを抱き、時々苦しんだことや胸の中でかすかに光輝いたものを忘れたくなくて言葉にしたくなる。でも、疲労で満たされた体は「今日はもう休みなよ。」と言ってなるべくブルーライトを閉ざすように促す。そんなこんなで思いの丈をここに記すのは決まって週末。本当に書きたいことは、先週の火曜日や木曜日の夜風と共に消し去られてしまったような。そんな風に思いながら、ここで胸の中に溜まったあれやこれを言葉にする。人はつくづく言葉にしたい生きものなんだな。
大学生のころ、慣れない環境に戸惑ったり、孤独を感じたりしたとき、詩を何度も書いた。自分を鼓舞するための詩だ。時々思い立ったようにその詩を読む。すると、無理やりでも前を向かないといけなかったこと、誰かに寄り添いたかったことが今になって痛感する。明るさの中に隠れた闇。見え隠れする闇。でもその闇が今になって光になっている。なんと喜ばしいことか。
今でもこうやって文を書いたり、心に沸き上がった思いを溶かすために詩を書く。用途が変わっても、詩を書くという行為は変わらない。何年たっても、自分が自分を信じて書き続けるということがなんだか愛おしい。
ひょっとすると、最後に自分を認めてあげられるのは自分なのかもしれない。誰かに「この頃楽しそうだね」と言われても自分の中で楽しさが認識できていなければ生きていくのは少し困難だ。もしくは、誰かに励まされたとしても、最終的に自分を自分で励ますことができなければ次の扉を開くことができないのかもしれない。ここ数年で見つけた、忘れてしまいそうで忘れてはならないこと、それは「自分を自分で認めてあげられること」だ。
誰にだって、悩みはある。顔、体、性格、声、家族、友達、恋人…… 地球に住む人の数だけ、悩みがある。でも反対にその数だけ認められるべき項目がある。誰にだって平等にある。
自分を認めるのは意外と難しい。人になら言える言葉も自分となると、躊躇したり後回しにしたりする。でも、一旦立ち止まって今の自分を見てほしい。どんなに情けなくても、どんなにいら立っても、どんなに好きになれなくても、この時代に生れ落ちて絶えず動いた心を、そして何よりその存在を認めてあげたい。時間をかけて、育てていこう。そうすれば、誰かにいつか寄り添うことができる。まずは、「自分を自分で認めてあげられること」から始めよう。話はそこから、なのかもしれないから。
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