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詩は降ってくる

そもそも私が詩を書き始めたのは、PCをボーナスで買ったのが始まり。

PCに触ったことがなかった私はPCに慣れるため色々ネットサーフィンしたり興味のあることを検索したりして、習うより慣れろ精神で好きなことをすることでいつのまにか使いこなせるようになろうとしてたのだ。

そのなかで目に留まったのがニフティの詩の掲示板だった。詩なんてこれまでの人生で手に取る機会はなかった。国語の教科書でちらりと習った程度だ。見るともなしにアマチュアの皆さんがUPした詩をつらつら眺めていたら、あまりに下手なのだ。下手というより、見ているこちらが恥ずかしさを感じるような稚拙ぶりなのだ。

この程度なら私でも書ける。

はい、書いてみましたよ。投稿してみましたよ。絶賛の嵐でしたよ。

気分いいよね笑 褒められるということが極端に少ない人生だったから、あっという間にトリコになってしまいました。書けば書くだけ褒められる。面白くて仕方なかった。仕事先ではお局様の標的になっていじめられていたから、むしゃくしゃした気持ちをぶつけてストレス発散にもなったし。

この時はまだ「考えて」書いていた。

一年か二年か、ある日、急に詩が降ってきた。流れ星のように。

この詩はそれまでのストレス発散のためでもなく考えたものでもなく、突然後頭部のスクリーンに情景と詩文が流れていった。それがね「花の骨」っていうの。これは今でも詩の投稿サイトB-REVEWにある。興味があったら検索してみてね。

詩が降ってきたのは初めてだった。物語詩を書いたのも初めて。

それからは、降ってきた詩と、考えた詩と半々くらいで書いていって、少しずつ考えて書く詩がつまらなく思えてきて。

それよりも比較的リラックスしているときに、ふと突然後頭部のスクリーンに情景とタイトル、最初の詩文からオチまで流れていくものを書き留めることに夢中になっていった。

ちなみに記念すべき「花の骨」は、詩の雑誌である文芸思潮の現代詩コンクールで優秀賞をいただいた。コンクールで賞金をもらえたのは初めてだった。

現在はね、考えて書くということは、してない。というか、考えて書くということができなくなってしまった。書こうとも思わない。

いつからか解ったのだけど、そうやって降ってきた詩というものは、これは私の日々の蓄積されていったなにがしかの言葉にならなかったものが、無意識の領域から見せているものなんだなあと。

私、感情を言葉にするのが滅茶苦茶苦手なんです。簡単な喜怒哀楽をありふれた言葉で(楽しかったとか悲しかったとか)表せる程度で、降ってきた詩はその言葉にならなかったものが、形を変えて私の感情感覚を言葉に置換されたものだと理解できたけれど、書いた直後は「これは私の何を表しているのだろう?」って解らない。あとになって解るものもあれば、人さまから言われて初めて解るものもある。最長は、10年。何が言いたいのか解らず書いた詩をB-REVIEWで初期のころにいらした方に、いただいたコメントで解読してもらったことかな。あの方が解読してくださらなかったら今でも気に入ってはいるが何を言いたいのか解らない詩として放置されていたと思う。「無明」というのですけどね。解読されてしまえば、あ、そんな簡単なことが10年も解らなかったんだと呆れてしまいました。

そうやってね、自分で書いておきながら解らないから、人様から頂くコメントがどれだけ嬉しく有難かったか。

私ね、幼いころから読書が趣味だったのだけど、本の中には様々な感情が描かれているのにね、ちっとも自分のものにできてなくて少々いやかなり恥ずかしい。自分のものにできているであろう降ってきた詩ですら本人には何を言い表しているのか解らないんだから、なにか欠損しているとしか思えない。

そんな私だからひたすら有難かった詩の投稿サイトB-REVIEWも辞めざるを得なくて、いまはのんきに降ってきた詩をポツポツ書き溜めてます。

あ、文芸思潮の今年の現代詩コンクールで奨励賞をいただいたので、選評が載る予定の雑誌、やっと予約できました。楽しみなんだー。選評とコメント一緒にするなと言われそうだけど、私にとっては人様から頂く言葉として同じくらい有難いので、選評を読むのが楽しみなの。

ほんとにね。私の日常とかけ離れた詩が降ってくると、狂喜乱舞しちゃう。詩っていうのは、私の代弁者だから。感じたことを上手く処理できない私の代弁をしてくれるもの。大事で大切なもの。