読了『いとエモし。』

先日買った本のうち、一冊を読み終えたので感想を残しておこうと思う。
タイトルにも書いておいてあるから改めてになってしまうけれど、『いとエモし。』という本を読み終えた。
年代もジャンルも様々な古典文学の中から主に詩歌を引用して、現代の人にとって理解されやすい言葉(要はものすごく簡単にした話し言葉)で訳したものが、全部で111にもわたって書かれている。

僕自身、古典文学というものには一般の人々よりは遥かに多く触れてきた自覚があるから、結構楽しんで読むことができた。
たまに、というかそれなりの頻度で
  「古典文学をそんな言葉で訳すな」
みたいなことを言う派閥に所属している人を見かけることがあるのだけれど、僕個人としては古典が好きな人ほど訳し方には柔軟な思考を持っていると思っているので、本当にかけ離れすぎていない限りは全然いいんじゃないかと感じている。(学生時代に古典に興味を持ちきれなかった人が数年経てから改めて古典に関心を向けるか、というと難しい話になりそうだけれど、)古典に触れるならまず「理解できる」ことが大切だと思うので、その点この本は十分だと思う。古典が好き、そうではないに関わらず、「へぇ、面白い捉え方だな」と感じられることは保証できるはずだ。

たくさんの詩歌が引用されている本作の中に、個人的に好きな歌も多く登場していて、そういった歌が出てくると嬉しい気持ちになった。
そんなわけで、いくつか好きな詩歌を引用させていただいて、感想を述べておこうと思う。

玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば
忍ぶることの よわりもぞする
                式子内親王

『新古今集』より

「忍ぶ恋」(人に知られない恋)といえばこの人、といわれる式子内親王の歌で、百人一首にも採られている有名な歌だ。簡単に言ってしまえば、「命が絶えるなら絶えてしまえ。長く生きたら耐える力が弱って、恋心が知られてしまうから」のようなものになるのだけど、本書の訳では悲しさや辛さといった意味合いは感じられず、強い心が押し出されていた。
「この恋心は、私の中だけにあればいい。」
「気持ちが弱るくらいなら、命よ、いまここで果ててしまえ。」
という訳し方がされていたのだけれど、ここからは式子内親王の抱える恋心に対する誇りのようなものが感じられるものになっていて、心が動かされるものになっていた。

夜をこめて 鳥の空音に はかるとも
よに逢坂の関はゆるさじ
               清少納言

『後拾遺集』より

こちらもまた有名な歌で、『枕草子』の「頭の弁の、職にまゐり給ひて」段で詠まれたことでもよく知られている。清少納言の男性に対しての物怖じしない言動、漢籍の深い知識が上手に発揮されていて、いい。仲の良い男性である藤原行成との間に交わされたやり取りの中で詠まれたものだけれど、彼女たちの関係性も垣間見ることができてとても楽しい。
全然関係ないことなのだけれど、僕は清少納言という女性がとても好きなので、触れたことがないという人は『枕草子』もぜひ読んでみてほしい。もしかしたら『枕草子』のオススメの章段については別で記事にするかもしれない。
なお、本書のタイトルである「いとエモし」は清少納言の十八番である「(いと)をかし」が由来となっている。


めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半の月影
                  紫式部

『新古今集』より

こちらは紫式部本人によって、幼馴染と久しぶりに会えたけれどほんのわずかな時間しか一緒にいることができず、月が雲に隠れるまでの時間と競うように帰ってしまったために詠んだ、と明言されている歌だ。
紫式部という女性の感性というか、そういったものが感じ取れる和歌になっていて、「せっかく会うことができたのに」「ほんとうに一瞬の出来事だった」といったあたりがわかりやすいかなと思う。本書では、この幼馴染との刹那のやりとりの締めくくりを
「楽しかったな…楽しかった。」という訳を添えたものにしている。この一文が本書のとてもいいところで、こちらへの解像度を一気に上げてくれている。
またこの歌もこれまでに紹介した二つの和歌とともに百人一首に採られていて、最後の句は「夜半の月かな」と詠嘆で締められているものもある。


しづやしづ しづのおだまき 繰り返し
昔をいまに なすよしもがな

吉野山 峯の白雪 ふみわけて
入りにしひとの あとぞ恋しき
                 静御前

『義経記』より

こちらの歌は室町時代に成立されたとされる物語集『義経記』の中に登場する、静御前のエピソードの歌である。静御前は源義経の愛人の女性で、日本一ともされる白拍子でもあった。(多少ズレると思うのだけれど、白拍子は舞を踊る人、のようなニュアンスである)
『義経記』は義経が壇ノ浦で派手に暴れたあと、頼朝に追われることになってからがメインのストーリーになっているのだけれど、その中で静御前と義経は離れ離れになってしまう。そんな中、頼朝に呼ばれ舞を披露することになった静御前が、舞の最後に詠んだ歌がこれだ。義経に名前を呼ばれた日々を胸中に抱いて繰り返し、追われた義経の後を追うことができていたなら、という静御前の想いが歌われている。
こちらの歌に関しても本書ならではの締めの言葉が添えられている。「もう一度、あなたに会いたいの。ただ。それだけ。」というこの一言があるかないかの差はとても大きいように感じる。悲運の女性である静御前の、義経へのただならぬ想いの深さを感じることができる。本書で紹介されていた和歌の中でも僕が指折りで好きな和歌だ。


世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ
海人の小舟の 綱手かなしも
               源実朝

『新勅撰集』より

こちらもまた百人一首に採られている和歌の一つで、あの藤原定家に師事して和歌を習ったといわれる将軍、藤原実朝によって詠まれたものだ。
多くの和歌は「諸行無常」、つまり「移り変わること」をテーマに読まれていることがそれなりにあるのだけれど、実朝のこの歌は「変わらないでほしい」と願う歌になっている。
何気ない日常の風景に無性に心が動かされることを歌っているものなのだけれど、これもまた本書独自の訳が光っている。
「世界よ、どうか変わらずに。どうか、どうか。」
この一文がこの和歌を完成させているといってもいいと思う。僕は以前自分の別の記事で、「変わらないこと」について触れたことがあったと思うのだけれど、僕の思うことと重なるところが多い和歌だった。変わることが確実となってしまっているこの世界で、それでも変わらないことを求めてしまうことは、良いものではないかもしれないけれど悪いことでもないはずだ。


というわけで、5つほど紹介させていただいたけれど、でてくるもの全てが素晴らしい訳によって彩られていた。
古典作品にあまり関心がない人はもちろん、慣れ親しんだ人も新鮮な感覚を共有できる作品だと思うので、機会があればぜひ一度読んでみてほしい、と思う。

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